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●ニューカレドニア

ヨーロッパ フランス共和国 AD 

 南太平洋のフランス海外領で,グランド=テルといわれる本島(属島を含めて面積1万7,178平方km)とロワイヨティ諸島(面積1,925平方km)で構成され,海域面積は174万平方kmである。人口は14万5,368人(1983年,うちロワイヨテ諸島は1万5,510人),首都はヌメア(人口6万112人)である。

 1774年にグランド=テル北端部に上陸したキャプテン=クックが,スコットランド(カレドニア)に似ていると感じて,命名したニューカレドニアが今日まで地名となった。キャプテン=クックは,同年本島東岸を巡航してイル=ド=パンに到達した。行方不明になったフランスの航海者ラ=ペルーズを捜索していたフランス探検隊は,1792年イル=ド=パンに到着して,本島東側を調査しながら北上した。その後英・仏両国は,この島の領有をめぐって対立した。

 1850年に,フランス調査船が原住民に襲われたのを契機に,フランスは領有の意図を強め,1853年グランド=テル北部とイル=ド=パンにフランス国旗を掲揚し,当時,島の沿岸を測量していたイギリス船を出し抜いた。

 フランスはニューカレドニアを囚人の流刑植民地とする構想をもっていたが,1864年5月から1898年まで,とくにパリ=コミューン以後は政治犯を主体に累計約4万人におよぶ流刑者が,ヌーメア沖のヌー島デュコ半島・イル=ド=パンに送り込まれた。1898年からは,フランスの自由移民のための植民地となった。 1863年に金が発見されて以後,ニッケル鉱業の開発などが,牧畜やプランテーションの開発とともに,原住民の土地を奪取する原因となり,1883年には原住民の保留地は,わずか11万3,564ha(グランド=テル総面積の6.8%弱)になってしまった。1887年の人口は6万137人で,そのうち原住民は69.5%,ヨーロッパ人は27.5%,アジア人は約3%という構成であった。アジア人はニッケル鉱業の労働者として導入されたヴェトナム・インドネシア・日本の契約労働者であった。

 その後,原住民人口は減少の一途をたどり,1921年には2万7,100人(総人口の57%)になった。原住民は1930年代に入ってからは,少数民族の地位に近づき,1860年代からヨーロッパ人の増加のため,完全に少数民族となってしまった。伝統的な土地を奪われた原住民が,1878年の反乱以来繰り返しフランスに抵抗したが,そのたびに武力鎮圧されたことが,人口減少の原因であった。

 1946年フランスの第四共和国憲法のもとで,ニューカレドニアは海外領という政治的地位となり,パリのフランス上院と国民議会には,それぞれ現地選出の1議員を送り込み,現地には領域議会が設けられ,その選挙で多数議席を占めた政党指導者を中心に,政府評議会という内閣に似た行政府が設けられたが,政治の実権はフランス政府の派遣する総督(今は高等弁務官)に握られている。1975年からニューカレドニア選出の国民議会議員は二人になった。

 ニューカレドニアの政党のうち,最も有力なのは自治を要求する UC(カレドニア人同盟)だが,フランスの同化政策に迎合する政党など,パリの政党に系列化したものも多かった。1970年ごろから原住民は民族的アイデンティティを象徴することばとして,“カナク”を用い始め,1977年領域議会選挙のときから,UC から分離してカナク解放を主張する複数の政党が出現した。

 1980年代に入って独立運動は強まり,1981年フランスに社会党政権が出現してから,ニューカレドニアの政府評議会は,独立派と中道派の連立となったが,フランスの政策は内政自治の高度化にとどまった。1984年,その内政自治憲法がフランス議会で成立し,1989年に独立の賛否を問う住民投票を行うことになったため,独立主義者戦線を構成していた政党間に分裂がおこった。

 1984年9月末に独立派諸政党は“カナク社会主義者民族解放戦線”FLNKS を結成し,フランスを無視して臨時政府を発足させる計画をすすめている。

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