●入定 にゅうじょう
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入禅定(禅定に入る)の省略で,入るとは到るということ。心を一カ所に安定させ,身(五体)・口(言語)・意(心)の三業(行為)を動揺させることなく,迷いの世界に落ち入ることもない悟りの境地に達することをいう。それから転じて,高僧の死を入定というようになった。空海は,須弥山(しゅみせん)で修行中の弥勒(みろく)が仏となって,この世に帰って来るまで高野山に入定して待っており,弥勒成仏の暁には,その衆生済度で助けようとしているという信仰は,その一例である。出羽三山中の湯殿山は,空海が丑(うし)の年に開山したという伝説がある。今も丑年には湯殿山にもうで,山中の注連寺境内の桜に注連(しめ)をかけていくと伝えられているのも入定伝説にもとづいている。湯殿信仰の高揚に深いかかわりを持つ一世行人(いっせぎょにん)もこの伝説を信じ,死期の到来を悟ると塚を築いて生きながらそれに入る。これを生身(しょうしん)入定という。【一世行人】木食とは,コメ・ムギ・アワ・ヒエ・キビを食わず,木の実や山菜だけで生命を保つ五穀断ちのこと。これに加えてトウモロコシ・ソバ・ダイズ・アズキ・クロマメなども断つと十穀聖(ひじり)と呼ばれる。五穀と塩を断てば十穀断ちになるという説もある。羽黒派の木食行人は修行を始める際に,開祖の前で生涯これを守ることを誓って木食戒を受けた。羽黒山内居住の行人は山外禁足と言って,春の彼岸と盆に墓参りのため生家に行く以外は,山をおりることはできなかった。湯殿山の行人は仙人沢に籠り,1日2回水垢離(こり)をとり,湯殿山の宝前にもうでた。これを特に山籠と書いた。
【木食山籠】生涯木食戒を保ち,別火精進をつづける行者。湯殿山や羽黒派の行人も,高野の行人の系統をひくものであるが,教団の性格と時代の変遷から三山三様の形態を生じている。羽黒派の木食戒には,不邪イン※注1※戒も入っているが,これは邪イン※注1※を禁じるもの。火注連(ひじめ)の行という別火精進の期間以外は,正時・正房において,妻と枕を交わすことを禁じていないので,妻子と同居し子どもに跡を継がせた。外形は剃(そり)山伏だが,実際は俗体修験という二面性をもち,朱印地や黒印地を領する有力な行人もいた。1447年(享保4)に,幕府に提出した『羽黒派修験連名帳』に行派・一世行人としるされているのは,彼らのことである。しかし,山内居住の7人は山外禁足のうえ,女性の参詣は禁じていないもの,住むことは許されなかったので結婚はできなかった。その一人である不動院は,境内を流れる祓川の橋番を勤め,冬峰に用いる火打鎌を加持する任務を帯びて独立の住坊を与えられていた。ほかの6人は六供(ろく)とも承仕(じょうじ)とも呼ばれ,うち5人は大黒堂に住して大堂(本社)に常勤し,西性海(さいしょうかい)の指揮のもとに大堂の灯明役や供物(くもつ)の献備を職としていた。西性海は承仕頭で独立した住坊に住み,六供の取り締まりと指導・養成に当たり,本社の鍵取(かいどり)を兼ねて,支配職だけで執行する法座(春峰)にも陪席した。
【山籠行と入定】湯殿系行人の形態は羽黒と同様で,僧でも修験でもない。寺僕のように炊事・洗濯から祈祷の手伝い・配札・勧進にまで従事した。年功によって上人号を与えられたが,注連寺や大日坊の出すもので,本山の補任したものではないから住職資格はない。豊臣秀吉の外護を受けた木食応其は,木食行を兼修した正規の僧とは違うのである。現在わが国にあるミイラは24体にのぼるが,即身仏と呼ぶにふさわしいのは,多くの人びとの苦患をわが身に振りかえ,土中に生身入定した天台や真言の僧と湯殿系の木食山籠行者13人である。羽黒派の行人で入定したのは2〜3人いるが,即身仏となった者は一人もいない。これは羽黒派には生身入定否定の思想があるからである。
〔参考文献〕日本ミイラ研究グループ編『日本ミイラの研究』1969,平凡社
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