●日本陸軍 にほんりくぐん
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正しくは大日本帝国陸軍。帝国陸軍あるいは皇軍と略称した。地上の敵戦力撃滅を目的とする軍隊である。【創設】1871年(明治4)2月13日薩・長・土の3藩兵で御親兵を置き,同年7月14日廃藩置県と同時に4鎮台を設置した。これが日本陸軍の創始とみられよう。当時の兵員数は1万4,249名であった。
【日本陸軍の性格】1873年(明治6)1月10日徴兵令が発布されて建軍の基礎が定まり,1889年(明治22)制定の憲法で,国民皆兵,兵役の義務が明確にされた。1882年(明治15)軍人勅諭が下賜された。このなかで示された忠節・礼儀・武勇・信義・質素の徳目とともに〈朕は汝等軍人の大元帥なるぞ〉という文言は,その後軍人の精神的なよりどころになった。日本陸軍の軍制は,当初フランスに範を取っていたが,明治10年代後半からドイツ式に改められた。以上のように,国民皆兵・天皇親率・ドイツ志向の考え方が日本陸軍の性格を特長づけている。
【軍備の拡充と戦績】日本陸軍最初の外征は日清戦争(1894〜95)であり,12万2,200人が出征した。ついで日露戦争では13個師団,騎・砲兵各2個旅団を基幹とする軍隊が参戦し海を渡った者約100万に達した。この2度の大戦の勝利によって,日本の国際的地位が高まり,国内においては,陸・海軍が大きな勢力をもつようになった。陸軍の作戦計画は,日露戦争前までは守勢的なものであったが,1907年(明治40)から攻勢を本旨とする計画を採用した。この計画で陸軍は日露戦争開始時の2倍の兵力にあたる平時25個師団,戦時50個師団の兵力整備を目標にした。海軍もアメリカを目標として軍備拡充を計画したから,これ以後の軍事費は総予算の30%を超えるようになった。その後,第一次世界大戦にあたっての青島占領,4年にわたるシベリア出兵など,意味のうすい軍事行動が目立つ。
【軍縮とその影響】第一次世界大戦後の軍縮気運のなかで,陸軍は1922年(大正11)と1925年(大正14)の2回,大軍縮を実行した。ときの陸軍大臣の名を取って,前者を山梨軍縮,後者を宇垣軍縮という。この結果陸軍の平時兵力は約20万人になったが飛行部隊の増加・戦車隊の新設など軍隊の近代化がはかられた。軍縮の反面,現役将校を中学校以上の学校に配属し,軍事教練にあたらせることになった。配属将校の配置や在郷軍人の増加などによって,陸軍の思潮は国民のなかに深く根をおろし,大きな政治的な力をもつようになった。明治時代,陸軍内は長州出身者が主流を占めていた。軍縮による人事の停滞は,長州閥の徹底的な追放と陸軍大学校出身者による新しい派閥の成長を招いた。強力な実行力をもつ新派閥は,しだいに政治的な行動をとり,下剋上の風潮を生むようになった。
【陸軍の終末】1931年(昭和6)生起した満州事変で,陸軍は軍事的成功を収めたが,反面深刻な国際孤立に陥った。国際孤立下の日本はその安全と独立の保障を軍備の増強に求めた。しかし日本は軍の近代化に必要とする資源も工業力もなく,陸軍は装備不十分のまま兵力を拡充することになった。この軍隊は1937年(昭和12)生起した支那事変の戦闘では成功を収めたが,1939年(昭和14)夏のノモンハン事件では装備の劣勢が表面化した。しかし陸軍は装備の差は精神力で補うこととして兵力の拡充を急いだ。中国戦線では,たえず70万前後の兵力が作戦しており,これが日本の経済を急速に悪化させた。1941年(昭和16)生起した太平洋戦争では,当初急襲的な成功を収めたものの,その後の作戦指導は当を欠き,連合軍との装備の差も表面化するようになった。しかし第1線将兵は勇戦敢闘し,各戦線で玉砕する部隊が続出した。飛行隊では敵艦船に体当たりして連合軍に恐怖を与えた。大戦末期の残存兵力は約547万人であった。