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●日本民族起源論 にほんみんぞくきげんろん

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 1877年(明治10)エドワード=モースが日本にきて大森貝塚を発掘し,その中で大小16個の人骨から,アイヌ以前の住民と考えた。坪井正五郎はエゾが貝塚製造者とし,渡瀬荘三郎は札幌の竪穴でコロポックルと称える人がいたといっている。以来コロポックルかアイヌ(蝦夷)かを論じている。コロポックルとは,アイヌの説話に出てくる「蕗の下の人」と呼ばれる小人のことである。小金井良精坪井正五郎のコロポックル説の虚をついた。そして貝塚より出る人骨を分析してアイヌ説をといている。その結果坪井正五郎の論理的可能性よりは,小金井良精の人骨の比較研究の方が方法的に一歩すすんでいる。しかし坪井は1897年(明治30)「日本石器時代人民遺物発見地名表」を公表し,その総論でコロポックル説を体系的にのべ,それがエスキモーに似た人種でないかといわれている。しかし鳥居龍蔵は北千島探険を行い,北海道アイヌに伝わるコロポックルおよび土器石器使用云々の口碑の上に成り立つ人種論が誤りであることを指摘し,その証拠としている。この証明によってコロポックルよりアイヌ説の方が妥当であるとした。ついで浜田耕作によってコロポックルが追い打ちをかけられた。こうした中でコロポックル説は崩壊している。

【人類学の展開】坪井正五郎の死後考古学界には幾つかの有力研究グループに分かれた。[1]東京の人類学教室では鳥居龍蔵・松村瞭が中心,[2]東北には長谷部言人・杉本彦七郎,[3]京都には,浜田耕作・清野謙次,[4]九州では中山平次郎が推進力となっている。大正期になると考古学が無批判的に民族論と結びつけることについて反省がすすみ,縄文文化=先住民文化論批判がおきている。ついで目的的発掘方法の時代となり,地質学の層位的観察を導入をすることとなった。新帰朝者浜田耕作は,モンテリウスによる遺物の形式学的方法を紹介し,発掘方面でも,大阪府国府遺跡での分層的な発掘を行った。アイヌ説の代表者鳥居龍蔵は,縄文式土器に,厚手式と薄手式の区別を認め,それぞれを狩猟人と漁撈人の土器と解釈して,従来の方法を推進した。その後近代科学へ一歩前進した。石器時代人の人骨の採集を目的とする大発掘がつづけられ,古人骨の資料が急増した。その推進者は清野謙次博士や長谷部言人博士であった。清野謙次は比較的人骨運がよく,彼とその門下はマルケンの計測方法を採用して,人骨を計測し,それを現代日本人,アイヌ人の人骨の計測値と統計的に比較検討する方法をとった。その際ポニアトウスキー氏の型差の算出方法を使って,各人称間の平均型差を算出し,比較する方法をとった。その結果,石器時代人は近畿地方現代日本人・樺太アイヌ・朝鮮人とは大きな平均差を示すので,貝塚人は日本石器時代人と称する独自の性質をもった群と見るのが適当であり,朝鮮人とは,最も大きな型差を示すことから,石器時代人の大陸系人種とはあまり関係がないと考えられた。これに反して古墳時代人では,朝鮮人との型差が貝塚人と朝鮮人の型差よりはるかに少なく,また同じ程度で近畿地方現代日本人にも近寄っていることから,有史前後に朝鮮経由の大陸系人種が列島に渡来し,そこに混血現象がおきたと解したのである。こうした中で清野が石器時代人を固有日本人が原日本人と呼ぶようになった。

【日本民族一系論】長谷部言人博士はアイヌ説や原日本人説ともちがって,現代日本人を混血民族とするという考え方に反対している。彼は東西文明融合論に背を向け,石器時代人と古墳時代人とのあいだに何ら本質的な相違はないと考えている。日本石器時代人と現代日本人の人骨の中で異なる点は,四肢長管骨の偏平性と,咀嚼器官の強大とである。そのうち四肢長管骨の偏平性を脛骨についてみると,その形が現代日本人は三面柱状で,内・外,および後面の区別ができるが,石器時代人は偏平なため,後面中央に上下にいたる形状だけが発達し,そのため元来の後面は内・外両側平に分かれる。その結果,骨の横断面は菱形で脛骨の偏平の根本をなす前後頸の著しい増大を招いている。

また石器時代人の頭骨の中で,下顎柱や側頸線が,現代日本人にくらべて強いのは,やはり,不完全な食物を咀嚼しなければならなかったため,利器不足を補うため,咬筋・側頸筋・楔状筋の強大化をまねいたのではあるまいか。それが古代人になって,食物の加工がすすみ,咀嚼器官があまり酷使されなくなると,下顎骨・眉間や眼窩上部の発達がよわまり,脳部の発達を招くようになったのである。長谷部はかくして日本石器時代人こそ,現代日本人の真の祖先だとし,もし,日本人の起源を考えるとすれば,日本石器時代人の原郷土を考えねばならぬとしている。そして彼は,現代南シナ人の形質が,日本人に似ていることから,南シナ方面に原郷土を求めているようである。

【アイヌ説の破綻と長谷部説の根拠】長谷部博士は〈骨の観察,計測,比較は私たちに骨のちがいをはっきりしめしてくれたが,それ以上のことはなにもあかしてくれなかった〉(『日本人の祖先』p75)と含蓄ある言葉をのべているが,さらにそのあとにつづいて,骨の型は,筋肉のつき方に関係することに注目させながら,それが労働の型によってできることを述べている。これは,人骨のちがいを素朴に,人種のちがいに結びつけることの反省としても重要な提言であった。人種のちがいを強調し,すべてをそれで安易に片付けやすい時代に,長谷部博士の述べたこの考え方は正しく進化論学説を継承し,人類学を推進する方向を示した。内地人の抜歯の方法はアイヌ人にはみられないことからアイヌ説は破綻している。これは血液型からいってもみとめられない。長谷部学説は根づよい根拠をもっている。国際的な背景をもつ人類学の成果を彼ほどいかしている人はいないということ,長谷部学説は無土器文化の発見,旧石器時代人が予想されても十分適応できる学説であること。ただ明石原人か中川人のごとき人骨と縄文文化人とのあいだには,長い空白があり,また大陸の旧石器時代と比較して系統を論ずることはむずかしい。

【長谷部学説批判と諸科学総合の芽】戦後石田英一郎・岡正雄・江上波夫・八幡一郎が会合をもった(1984年5月4日〜6日)。この座談会で提起されたものに江上波夫騎馬民族説がある。この学説は在野民間史学の学者からもきかぬ学説である。この座談会では長谷部学説の混血型定説への批判がされ,その個体変異や地方的差異は一つの立場にすぎぬと批判されている。いずれにせよ長谷部学説はさまざまな角度より批判されている。そのあと騎馬民族征服説が世の中にクローズアップされた。江上波夫は〈私は大陸地方系騎馬民族の一派が日本島に渡来して,その倭人を征服するにいたった事情,およびその経過を次にすこし考えてみたい。もっともこれらの事情,あるいは経過については東洋の歴史は黙して語らず,直接には解答を支えてくれるものがほとんどないようにみえる〉とあくまで仮説であることを述べている。ついでそれによって東亜の大勢から,朝鮮において高句麗・百済の併立をうながし,したがってこのような中で朝鮮に南下した夫余,あるいは高句麗のごとき大陸系北方系騎馬民族の一派が,海を渡って日本へ渡来し,騎馬の卓越した武力によって倭人を征服したと説いている。しかしこの説にはさまざまな欠点があり,批判があいついでいる。そのため成り立つとはいいがたい。

〔参考文献〕芳賀登「日本民族の起源への疑問」『真説日本歴史1 天皇制のなりたち』1959年7月,雄山閣