●日本民主党 にほんみんしゅとう
アジア 日本 AD
戦後の政党名の一つ。[1]日本自由党から脱党した芦田均らは日本進歩党(幣原総裁)を中心に,自由党・国民協同党やその他の人々を集めて〈固陋な資本主義の積弊を脱却しつつ社会主義の非現実性を修正する〉という修正資本主義的政策をかかげている。1947年4月20日の第1回参議院選挙に,29名を当選させ第3党,第23回衆議院議員総選挙には124で第2党となる。そのあと吉田内閣総辞職後,片山内閣(6月1日成立)には芦田総裁が外相となり協力(7閣僚参加)。この間石炭鉱業国家管理問題をめぐって幣原喜重郎らの脱党,大衆運動や予算のくみかえのため片山内閣総辞職後も三党連立を維持し芦田内閣を成立させた。しかし昭和電工事件で連座する人(大蔵大臣栗栖糾夫ら)も出たため総辞職,芦田はその後に逮捕され,犬養健が総裁となり,1949年(昭和24)1月の24回総選挙で,69名で第2党となる。しかし,その後党内が対立し分裂,犬養らは1950年3月民主自由党と合同して自由党を結成する。野党派は4月国民協同党と合同して,国民民主党を結成した。[2]いわゆる2度目の日本民主党は1954年(昭和29)11月24日に結成された(総裁鳩山一郎)。改進・日本自由党および自由鳩山・岸派が合同してつくったもの。これは吉田内閣の長期政権化に対し,財界は「清新にして強力なる政治力」をもつ保守党を再編成して“反吉田新党”としてつくられたもの。これは岸信介・三木武吉・松村謙三らが幹部につき,憲法改正・占領制度の改革・積極的自主外交をかかげ,日本社会党両派の協力をへて吉田内閣(5次)を打倒して第1次鳩山内閣をつくった。この内閣は実権を三木・河野一郎が握った。その第一声は〈政治を明るい清潔なものにし,綱紀を正し,節約謙虚の生活をしたい。日本の復興は日本人同士の同胞愛と,祖国を愛する情熱によって積上げていきたい。また正しい人が正しく楽に暮らせるようにしたい。インフレの防止をしながら,総合的な計画性のある経済産業政策を推進し,働く意志のある者は職場を得られ,働く者は将来の明るい希望がもてるようにしたい〉といい,日ソ交渉の開始・社会保障費の増額等で鳩山ブームを巻きおこした。1955年(昭和30)2月の第27回衆議院総選挙では民主党185名で第1党となり,第2次鳩山内閣を組織した。しかし少数与党のため国会審議は難航した。6月1日ロンドンでの日ソ交渉開始・日本住宅公団設立等,自由党との妥協で成立させ,11月15日に自由党との保守合同により,自由民主党を結成した。その場合も鳩山一郎を引退させ緒方竹虎を総裁にする動きがあったが失敗,三木武吉の政治力によって保守合同が成立した。その綱領には,[1]わが党は民主主義の理念を基調として諸般の制度・機構を刷新改善し,文化的民主国家の完成を期する。[2]わが党は,平和と自由を希求する人類普遍の正義に立脚して,国際関係を是正し調整し,自主独立の完成を期する。[3]わが党は,公共の福祉を規範とし,個人の創意と企業の自由を基底とする経済の総合計画を策定実施し,民生の安定と福祉国家の完成を期する,といっている。【日本民主党の綱領と反吉田】いわゆる2度目の日本民主党は,鳩山総裁・重光副総裁・岸幹事長のほか,総務会長三木武吉・政務調査会長松村謙三,最高顧問石橋湛山・大麻唯男・芦田均が就任,その綱領には,〈(1)われわれは,民主主義の下,身をもって政界の浄化,責任を明確にして議会政治の一新を期する。(1)われわれは,国民の自由なる意思により,占領以来の諸制度を革正し,独立自衛の完成を期する。(1)われわれは,自主国民外交を展開して,国際緊張を和らげ,アジアの復興と世界平和の実現を期する。(1)われわれは総合計画による自由経済を確立して,社会正義を則り民生を安定し,福祉国家の建設を期する〉との四つをあげている。これが鳩山内閣を支えた。そして日ソ国交調整と憲法改正問題に対し,新しい政治課題をひっさげ,少数与党でありながら野党各派と連携して,新しい政治局面を切り開いた。