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日本文学 にほんぶんがく
【美の理念】ほぼ1,000年にわたる日本文学は,いろいろな文学上の理念が多くの文学者によって唱えられてきたが,それはまず和歌においてみられる。すなわち古代後期,11世紀の歌人藤原公任(きんとう)は「余情」を重んずべきだと考えた。言外の情を尊重することは,言語で明瞭にいい切らない方法,いささかを述べて,後は空白の言語にゆだねるという態度で,たとえばのちの水墨画などにもみられるところのものが,はやばやと明示されたものであった。しばしば“間(ま)”ということばで表現されるものも,同一のものであろう。公任から150年ほど後の歌人,藤原俊成(としなり)は同じく余情を尊重し,微妙な深奥の趣を“幽玄”ということばで評した。彼は優美繊細な歌も高く評価したから,そうした趣も合わせもつ寂寥の気分を幽玄と称したものであろう。これは,したがって多分に宗教的な境地も示すものとして後々の歌論や能楽論などにも継承された。さらに俊成の子藤原定家はこれを継承しながら,歌境の深い歌,その歌のもつ味わいを,従来から艶なる情趣を表すことばとして用いられてきた“有心(うしん)”によって表現し,これをよしとした。これら父子の歌の理念は,和歌が最も和歌らしくある姿を優美に認めながら,しかしその優美さを奥深い玄妙の世界に求めようとしているところに,古代末期の時代の翳(かげ)りを認めないわけにはいかない。この翳りは時代が中世になるといっそう濃くなり,和歌から主座をゆずられた連歌において,とくに心敬(1406〜75)は仏教的な観相のなかに和歌や連歌をみようとした。〈氷ばかり艶なるはなし〉(ひとりごと)ということばにみられる「ひえ」の美学は,中世を暗示し象徴する美の理念であり,以後芭蕉の俳論などをみちびく上に大きな役割を果たした。氷の面の緊張感のなかに優美を見出したことは情念の余剰を一切そぎ落とした,精神の極地を志向したものだったから,心敬はまた〈心・言葉すくなく寒しやたせる句のうちに,秀逸はあるべし〉(ささめごと)ともいった。「や(痩)せ」というのも氷と等しいもので,能に痩男・痩女が痩面をつけて登場し,これが地獄の亡者の面であることを観客との黙契とすることは,心敬の連歌論と一体をなすものである。また芭蕉はこの「やせ」の精神を継承し,〈干鮭(からさけ)も空也の痩も寒の内〉(猿蓑)という句を読んだ。空也は念仏聖と呼ばれて市井に布教した高僧で(その痩躯はいま京都六波羅密寺の像にしのぶことができる),干鮭の姿を痩の象徴と見た句であって,「寒の内」というあたりに心敬の「寒くやせたる句」を意識していることがわかる。残念ながら,次の時代,近世の和歌には心敬ほどの深みをいい当てた歌論はみられない。むしろ賀茂真淵(1697〜1769)が「ますらをぶり」を唱え,小沢蘆庵(1723〜1801)が真淵に対抗して「ただごと歌」を,これをうけた香川景樹(1768〜1843)が「調べ」を重んじたことは,和歌が再びいかに歌うかというレベルに関心を戻したことを意味する。これに対して,俳諸は文学精神の追尋に熱心であった。近世俳諧は当初古典的な貞門俳諸が盛んだったが,より自由な立場から装飾的な技巧や奇抜な着想をもつ談林俳諧がおこり,この過程をふんだ必然的な結果として,内面の深化を求める俳人たちが出現することとなった。上島鬼貫(1661〜1738)はその代表的な一人で「まこと」を説いた。松尾芭蕉(1644〜94)はこの上にさらに詩境を深め「さび」「しをり」「ほそみ」そして「かるみ」を美の理想とした。「さび」とは閑寂な情をいい,「しをり」は優美の情の現れたやさしさをさし,「ほそみ」とは繊細な詩情をいうが,これらを通底しているものは,例の真淵の「ますらをぶり」といったものとはおよそ正反対の,生命内部への沈潜である。上の心敬の「痩せ」の継承と等しいもので,これらの根底に芭蕉における禅の影響もみのがすことができない。また芭蕉が旅の境地を歌ったことも一連のもので,わが身を固着・停滞せしめないことによって生命を危機にさらし,その緊張感のなかに詩をよもうとした。そしてこれは物の本質がつねに常住しないという仏教的な認識によるものであった。その結果「さび」その他の負の境地を本質的なものと考えるにいたるが,同時に一定の停滞をする重さをすてた「かるみ」を志向することにもなる。したがってこの「かるみ」とは最も本質的でありながらこだわりのない,平俗な形をとるものを意味する。芭蕉によって達成された日本文学の高みは,このような重厚さと平明さとの両面を併せもつところに特色がある。重厚さが孤独な深刻さをもたないところがきわめて日本文学的だというべきだろうが,それはとくに俳諧の場合,彼らが「連衆」の座のなかにあったからであろう。芭蕉は連句の付け方において「にほひ」「位」「うつり」といったことばで,情趣の連鎖を示しているが,このような他者とのかかわりこそ,衆の最も尊重すべきもので,集団性を保持しつづける日本の文学の,中核的な特徴である。俳諧は芭蕉以後与謝蕪村(1716〜83)によって「離俗」がいわれたが,これは卑俗な現実を離れた境地を主張したものである。以上詩歌における理念に対して,物語論や芸論においては本居宣長(1730〜1801)が『源氏物語』の本体を「もののあはれ」にあるとした論が注目される。これは物に感動する心を中心として表現が行われるとする論で,遠く〈詩は志である〉といった中国の古典的文学論から『古今集』行文におよぶ理論を継承したもので,この「あはれ」の主情性は同時代にできた『枕草子』が「をかし」という,趣に興ずる態度をもち,笑いの系譜につながる態度をもつのと,好一対をなす。後述のように日本の文学は「あはれ」により多く傾き,感情を重んずる点が大きいことからすると,『源氏物語』は日本文学の主流に位置し,かつそれのみならず,より理知的な対峙的作品のあることも重要である。また近世の近松門左衛門は浄瑠璃の演技について虚実皮膜論を展開する。つまり虚構と写実とのあいだの微妙な一線にこそ演技の狙いどころがあるという意見で,単純な写実・非写実をこえた芸術観が高く評価されよう。近松によれば,単に感動だけを表現していたのでは表現にならないことになろう。
【近・現代文学の理論】西欧文学の影響をうけた近・現代の日本文学は,いくつかの文学上の理論を展開するが,なかでも小説における中心的な文学理論をあげると,まず第1に『小説神髄』(上掲)が小説を明らかに定義したものとして注目される。さかのぼって江戸時代の淆本に“勧善懲悪”など儒教的な倫理が主題とされたことを排し,小説の眼目が人情と世態風俗とを模写するところにある,と逍?は考えた。すなわち社会機構のなかに人間をおいて,その心理を得るものとする近代小説の方向づけを行ったものとして画期的な議論であった。このリアリズムを受けたものが田山花袋の「平面描写」・岩野泡鳴の「一之描写」などで,これは長谷川天溪が〈現実暴露の悲哀〉といった現実に対して,これを暴露することが小説だと考えた諸論であり,ほぼ19〜20世紀の境を中心に論ぜられた。またこのころ行われた坪内逍?と森鴎外との「没理想論争」(1891〜92)は上のリアリズムとそれに対立するロマン主義をめぐる論争で,逍?は作家の小主観をすてて〈万般の理想〉を容れることを説いたのに対して,鴎外は「想(イデエ)」にみちた「小天地想(ミクロコスミスム)」を反映するものが小説だと考えた。このロマン主義的な思考はとくに雑誌「文学界」の人々に強く,とりわけて北村透谷は『内部生命論』(1893)において,人間性の自覚と自由への要求が,宇宙精神との合一によって可能だと説いた。これは時代思想としての自由への願望をよく暗示するとともに,不完全な近代化のために挫折する運命もまた十分に予測せしめる論であった。この非近代化を問題とした一人に夏目漱石があり,彼は人間の我執を鋭くついた作品を書きつづけるなかで,「則天去私」を理想的境地として説いた。またしばしば漱石と併称される鴎外も大正期に歴史小説を書き〈歴史そのままと歴史離れ〉ということばのなかに歴史小説の手法を説いた。なおこののちの小説は,白樺派による人道主義文学,小林多喜二らのプロレタリア文学,横光利一らの新感覚派の文学が,それぞれの主張をもって書かれた。ただこれらの多くは批評によって名づけられたもので,自ら論理的に主張されたものではない。
【特質】以上のような日本文学は,全体としての特質を次の5点にしぼることができる。第1に日本文学を感性の文学ということができる。日本人は論理よりも心情を大切にし,叙情的な作品に優れたものが多い一方,論理的に観念を問題とすることは必ずしも多くない。日本で随筆と呼ばれるジァンルはふつう,英語のエッセイにあたるといわれながら,エッセイの論述性はない。日常体験にもとづく感想をつづったものであって,評論ではない。そのことは『徒然草』という随筆文学の代表的な作品,しかも作者兼好はきわめて批評精神が旺盛だった作品の冒頭が〈心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつくれば〉(心に映るとりとめもないことを,何となく書き記していると)と始まるのは,きわめて雄弁にこのことを語っていよう。“感じること”の重大さは和歌・俳句が広く愛される現象とも,『源氏物語』が「もののあはれ」を語ったものだとされることも通底している。第2に日本文学は真実を尊重する。和歌は真情を吐露するものとして歌われ,近代和歌は「アララギ」の写実ふうが主流を久しく占めた。俳句で「ホトトギス」の写生が主流であるのとも同じで,象徴詩として見事に花ひらいた『新古今集』はむしろ例外的であった。したがって小説でも告白的なものが喜ばれ,古く『とはずかたり』,近くは田山花袋らの告白小説・私小説が生まれ,反対に虚構性が日本文学にはとぼしいこととなった。また,体験を重んずる態度は,体験主義的な芸術論となり,世阿称の『花伝書』などを生んだ。第3に日本文学は陰翳を礼賛する。日本人は栄達の人生劇よりも,敗者となって滅びゆくものの悲劇により多く共感をよせたり,深く心の奥所にひそむかげりを大切にして描写した。これをもって日本文学が〈下降型の文学〉といわれることもあり(伊藤整),谷崎潤一郎は『陰翳礼賛』なる評論を書いた。上述の中世の歌学に「幽玄」や「ひえ」が重んじられるのも,その現れの一つである。第4に日本文学は自然とよく親和する。現代俳句において高浜虚子はこれを〈花鳥諷(ふう)詠〉の詩と想定し,さかのぼって国木田独歩の『武蔵野』・徳富蘆花の『自然と人生』らの名篇が書かれ,さらに遠くは西行が花・月の根源的意味を問う和歌をつくり,また『源氏物語』には,心理と自然との交響が見事に造型されている。そして第5に日本文学は衆の文学ということができる。『古今集』などの和歌集の編集とは,集合体の詩を形成するということであり,『平治物語』なども語り手と多数の聞き手との相乗作用のなかでつくられ,また連歌・連句も「にほひ」をもって一句一句が連鎖せしめられる構造体を目的とするものであった。
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