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日本文学 にほんぶんがく
【発生と展開】日本において文学と呼べるものが誕生したのははるかな昔のことだったろうが,文字によって残されたものは,中国の『宋書』に倭の国王,武がたてまつったとして載せられる文書が,最古のものである。ときに,478年。このほかに石上神宮の七支(ななさや)の刀や埼玉県稲荷山古墳の鉄剣,また隅田八幡の鏡などの銘はさらに時代をさかのぼるが,5世紀に文字表現の画期があったろうことは推定できる。もちろん話しことばによる表現は,おそらく何百年も前から行われていたであろう。そしてそれは,神をたたえる歌や語り,また祈りやのろいをこめた呪(じゅ)言だったと思われる。こうして神祭りをめぐって発生した,ことばによる表現は,現在『古事記』(712年成立)・『日本書紀』(720年成立)に残されているような神々や天皇の系譜を語る詞章,英雄などを主人公とする説話に成長していったが,一方古代の人々が生活の合間合間に歌った労働歌や恋心をうったえる恋愛歌は上記の記紀におさめる歌謡から『万葉集』(770〜780のころに一応書きとめられ,のち変遷をへて11世紀ごろ現形ができた)の和歌へと発展した。その和歌は高度な抒惰詩の域にまで達し,この時代を“和歌の時代”と呼ぶことができる。以上を「古代前期」(または上代)と呼んで次の時代と区別すると,これは嵯峨(さが)天皇の810年(弘仁1)をもって,「古代後期」へと移ってゆく(794年の平安京遷都を区切りとする説もある)。古代後期には,まず漢詩文が流行し,ついで,仮名文字の発明による仮名文学がおこった。その頂点は紫式部の『源氏物語』だが,また清少納言の『枕草子』は随筆文学の白眉であり,和泉式部のすぐれた和歌とともに,11世紀の初頭を文学の黄金時代たらしめた。なかでも『源氏物語』は雄大な構想のなかに複雑な人間関係が展開するとともに深い思索から求められた主題が死と愛とをめぐって語られ,巧みな心理描写とともに高い到達点を示している。古代後期の文学はこれを頂点とすると考えられ,この時代を“物語の時代”と呼ぶことができる。しかし,やがて院政が始まり,武士が台頭するに及んで時代は大きく変わり,文学も変質してくる。すなわち源頼朝が鎌倉に幕府を開いた1192年(建久3)以後を「中世」と呼んで以前と区別することになった。この時代の開始をいろどるものは『新古今集』(1205年成立)だが,この華麗をきわめた象徴の世界は,しかし以前の和歌史の総決算の趣をもち,以後は和歌の衰微にひきかえて,連歌という新形式,血なまぐさい合戦を描いた『平家物語』『太平記』(1372〜73年ごろ一応の成立)など,時代の変化を一身にひきうけた文学が登場する。とりわけ霊魂が舞台に登場する能は,人々が死と直面して生きていた乱世に深く根ざした演劇であって,さまざまな文学が存在したにもかかわらず,この時代を“劇(ドラマ)の時代”と呼ぶことができる。この乱世は徳川家康が江戸に幕府を開くことによって,一応終結する。その1603年(慶長8)以後を「近世」と呼ぶが,この時代の文学はまず元禄のころ(1688〜1703)に松尾芭蕉・井原西鶴・近松門左衛門らを輩出するに及んで第1の黄金期をつくり,ついで19世紀,文化文政(1804〜29)のころに,第2の全盛期を迎える。前者は京大坂を中心としつつ,従来の文学伝統をつぐものであったが,後者は文化の中心が江戸に移り,江戸の町人を作者また読者として多彩な文学が行われた。とりわけ近世の特徴的な文学は,この後期の小説のたぐい,黄表紙・合巻・読本・洒落本・滑稽本・人情本などの草子であり,この,いわば庶民の読物ともいうべき草子を時代の特徴として,近世を“草子の時代”ということができる。ついで日本が明治維新という大きな変革期を迎えると,1868年以後,文学もまたまったく新しい形式と内容とに変わっていく。以後を「近世」「現代」と呼び,その区別はほぼ大正末年(1926)とするのがふつうである。近代の文学は何よりも人間の個人としてのあり方を社会との関係において考える点に特色をもち,明治20年前後の評論,坪内逍遥の『小説神髄』(1885)・二葉亭四迷の『小説総論』(1886),また二葉亭の小説『浮雲』などから出発する。小説およびその形体への関心は,ヨーロッパで行われるノベルを日本語の「小説」に置き代えて,その表現の可能性を探ろうとしたものにほかならない。この,近代市民社会を基盤として成立するノベルは文明開化以後の日本人にとって,市民としての個人の意義を問う点で,最も重要な表現であり,事実今日にいたる道程で,さまざまにすぐれた小説が生み出された。そのゆえをもって,近現代の文学を“小説の時代”と呼ぶことができるが,もとより詩歌などにおいても,封建制を脱出するべき個我が高らかに歌われたことは,いうまでもない。ただ明治・大正の小説が,写実主義・浪漫主義また人道主義といった方法上の区別をもって称せられるように,方法上の模索期にあったことは否めないが,一方現代の文学になると,人間の内面がより多く問題とされるようになった。そこに社会的個人という図式以上に,個人そのものの内面を問題とする現代文学の特色がみられ,こうなると,市民社会と相対化された個人を描く小説そのものも崩壊せざるをえなくなってきた。現代の文学はこうした非小説−非虚構への道を未来にむかってたどることと思われる。
【形式】日本文学のとる形式は多様だが,わが国の文学はまず唱和の歌謡から始められた。まだこの国土ができていなかった太古,まず出会った男女の神は「あなにやし え男を」(ああ美しい男性よ)といい「あなやし え女(をとめ)を」(ああ美しい女性よ)といったという。こうした短かい歌章の唱和がまず施頭歌(せどうか)として形式化した。日本の詩歌は音数をそろえることによってリズムをつくる点に特徴をもち,西欧のように韻はふまない。旋頭歌も五七七 音の3句に五七七 を歌いそえて次々と連係させるものであった(ただし現在は1句をそえたもののみ残されている)。しかしこれは五七七・五七七の第3句を落とすことによって五七五七七 という短歌形式をうみ,もっぱら一人の人間がこの形式で心情を表現する和歌を,以後の文学の基本に据えた。しかし短歌形式はまた分裂して五七七 という前句と七七 という後句とを分けて,二人の人が歌い,さらに同じことを連読させていくという連歌を生み,これに俳諧味(ユーモア)を加えた俳諸連歌が生じ,やがて連句と呼ばれるようになった。しかし連句の句頭の発句だけが単独につくられるようになり,またモノローグとしての俳句がおこって今日に及んでいる。以上のことは日本の文学がつねに集団的につくられ,かりに個人がつくっても集団を離れた立場からはつくられないという特質にもとづくものである。一方,古代後期を頂点としてさかえた物語はそもそも和歌を中心とした歌物語に虚構性をもった伝奇物語を加えてでき上がったものだから,情況や事件を立体的に構成したり,意図的につき合わせて描写しようとするよりは,語り手という1点から紡ぎ出された糸のように筋が語られていくものである。その点が対立形式によって情況をつくり出す劇とははなはだ遠い。これは,物語といえども,上記の和歌のモノローグ性が中心になっているからで,近代に及んでも私小説が書かれる所以である。これは主人公が作者自身であるという,和歌的な発想の小説で日本特有のものといわれる。随筆・日記というジャンルが主要な分野を占めるのもそのためである。なお物語には,ほかに『栄華物語』などの歴史物語,『今昔物語』などの説話物語,上記『平家物語』などの軍記物語が含まれる。これら物語のなかで,説話や軍記は広く大衆のなかで享受されたもので,その流れをくむものが上記の草子物である。草子は室町時代のお伽草子から仮名草子となり,井原西鶴による浮世草子にいたり,江戸中心の黄表紙らとなる。黄表紙や合巻は絵と文章とを合せたもので,一種の劇画文学である。ビジュアルな点で古代後期の絵巻物の流れをくむものであった。また劇文学としては上記能の詞章である謡曲,能の合間に演ぜられた狂言,また室町のころに行われた幸若舞(こうわかまい)の舞の本,近世の浄瑠璃・歌舞伎があり,不世出の作家世阿称や近松門左衛門の出現によって,謡曲・浄瑠璃はそれぞれ高い達成をみた。ただ能はいわゆるドラマとして律し切れないものがあり,これは主人公をシテと呼び,これと対話するものをワキと呼んで,両者は対応的関係にはない。ある種の能は前後2段の構成をもつが,その前後のシテの橋渡しをするものがワキだったりして,その立場はほとんどナレーターといってもよいほどである。この構成はドラマを現実における対応と見なさず,形と影,肉体と霊魂といった仕組みのなかに現実存在をみとめうるとする認識による独自の表現形式であり,次元を異にして二者が照応し合うという発想は日本文学基本の唱和形式と等しいものである。浄瑠璃はいかにも近世らしく演劇性を加えてはいるが,やはり義太夫の語りによって演ぜられる点は留意すべきであろう。その点歌舞伎は写実的風俗劇で,大いに様子が違う。なおこのほか,笑いを狙う文学があり,歌謡の基本的性格や上記狂言にもそれがみられるが,近世に流行した狂歌・川柳・狂詩は笑いをもっぱらとするものであった。その笑いは諷刺を主とするから,鋭い批判精神の生んだものということができよう。
【ことばと表現】日本語の特性にともなって,日本文学にもいくつかの特徴的な表現がみられるが,それらの基本に横たわっているものは,まず日本語の口誦性である。古く記紀歌謡に発し,中世の軍記物をへて近松の浄瑠璃などにみられる「道行き文」という形式は,次々と旅ゆく道中の地名をあげつづけてゆく独特の表現だが,たとえば〈落花の雪に踏みまよふ,片野の春の桜狩,紅葉の錦を着て帰る,嵐の山の秋の暮〉(『太平記』)といったぐあいに修辞をこらして次々と連想をつなげていくためには,ことばが音としていきていなければならない。文字で書かれたのでは,こうした表現は不可能である。まさにそのとおりに,これは謡い物の形式であった。桜狩という,ことによってしばしば一連のものとされる紅葉狩が次に呼びおこされ,紅葉の錦を着るという情景から嵐が喚起されるということばの連係は,リズミカルにとなえられる口誦言語の働きによっている。だからこの表現法は,枕詞とか序詞とかと呼ばれる修辞とも共通する性質のものである。「あらたへの」という枕詞は藤井とか藤江とかの地名へかかるが,本来「あらたへ」とは繊維の荒い布のことで,これを藤づるからつくったために,藤を次に呼びおこした。しかし「藤井が原」というとすでに一つの記号としての地名で,ここには一義的な植物の藤は存在していない。にもかかわらず〈あらたへの藤井が原〉(『万寿集』)という場合は,〈あらたへの藤―藤井が原〉という藤の音のジャンクションのなかで,意味が転換する必要がある。つまり,別に掛詞(かけことば)という修辞があるのと等しいことばの働きで,文学のように一語一意に固定しない,話しことばの同音多義性を利用したものである。高低アクセントをもつ日本語は,強弱アクセントによることばよりも,アクセントによる語の区別を,無視しやすいようである。のみならず類似の語まで同一視して,箸と端,憂(う)しと宇治などを語呂合わせに使ってことばを楽しむ。縁語などもそのなかに用いられた技巧である。〈唐衣(からごろも)きつつなれにし妻しあればはるばる来ぬる旅をしそ思ふ〉(『古今集』)の「からごろも」は着を介して来につづき,着つつ萎れた褄は,馴れた妻である。そして衣に対して「き」「なれ」「つま」が縁語である。したがって,これら口誦性による技巧は,同時にイメージの重層性ともなり,詩歌を豊かにしている。なおイメージの重層は『新古今集』によって試みられた本歌どりの技法にもみられる。古歌の一部を応用することによって新しくつくった歌の裏側に暗示された古歌の世界をひびかせる手法である。つぎに日本語が本来の和語と外来の漢語とからできあがっていること,外来の漢字そのものと簡略化によって得られた仮名と2種もち,それらの混用によって表記されることからくる,ことばの二重性が日本の文学のある種の形態をつくり上げている点が指摘できる。和語と漢語はそもそも異質なもので,島崎藤村が和語調によって『若菜集』そのほかの新体詩を書き,土井晩翠が漢語調の詩をもって『天地有情』などの詩集を世に問うたことが,きわめて対照的であるように,このそれぞれの美質を日本人は愛した。したがってこの両者を混淆して作品をつくることは,単に一部に外来語のまじる言語で文学を書くという場合とは,大幅に違う形になるはずである。『新撰万葉集』が和歌とそれを翻訳した漢詩とを並べたり,『和漢朗詠集』が同趣旨の詩と歌とを並べたりすることは,このわが国の言語において初めてみられる現象であった。また軍記物語や説話がより漢語調であるのに対して随筆や日記が和語調であるというジャンルの対比,和歌に対する俳諧が和語に対する漢語をもって,新しい抒情の世界を開拓したという歴史も,すべて日本語の二重性によっている。近代文学においても樋口一葉のように擬古文体によってのみ描写しうる女心のあわれを書きとどめた作家がいる一方,いちじるしく片仮名の西欧語を用いることによって新風を意図しようとする現代作家(田中康夫『何となくクリスタル』)もいる。第3に日本語が主格を一々明言しない言語であることは文体にも反映している。『源氏物語』などの物語や『蜻蛤(かげろふ)日記』などの日記では,しばしばほかの文と会話とがあいまいに入り組んでいる。直接話法で語るより,間接話法で会話がつづけられている。これらの不分明さは自他を明瞭な他者と区別せず,集団的な行為者として考える,いわば「衆思考」と呼ぶべき認識によっていよう。我も主体であると同時に彼にとっての客体であり,同時に彼は客体であり主体であるという環状思考は,あたかも上述の,言語のいつとはない滑走変転と似ていて,物事の流動的な関係を日本人が大事にしていることを物語る。物事は相対してそれぞれの自己を顕示するのではないのである。だからこれは,物語などにおけるプロットのなさと同質である。筋はストーリーと呼ぶにふさわしく因果の理をもって曲折しつつ展開するのではない。古代の物語にはよく「物のまぎれ」なる語がみえ,それによって事件が展開してゆく。これは一見物事の発生があいまいだという主張に似ていながら,実は反対に「物のまぎれ」こそが物事の因果をつくる確かなものだという認識を示す。これは,はなはだ言語の流動性や格の相対性と共通する特質である。
【形成の条件】いかなる国の文学とも等しいように,日本文学も,これをつくり上げた条件が考えられる。それは大きく三つあげられるが,その第1はつねにこの国の政治が内と外という緊張関係をめぐって行われてきたことであった。古代前期においては中国と,中世においては中国および“南蛮”と,そして近代では西欧諸国,現代ではアメリカとつねに交渉をもち,鎖国政策をとった古代後期・近世といえども,前者における中国,後者における“南蛮”との交渉がなかったわけではない。近世の西鶴が「おらんだ西鶴」といわれたり,あの伝統的な松尾芭蕉が南蛮文化にふれるべき長崎へ赴こうとしていたこと(途中大坂で客死)は,その一端であろう。南蛮文化との接触は中世にあってキリシタン文学と称される著述を生み,日本文学史のなかに貴重な1ページを加えたし,くだって1909年(明治42)北原白秋はキリシタン南蛮ふうの幻想を『邪宗門』に歌った。芭蕉の天命は白秋のさきがけをすることを許さなかったが,しかし芭蕉はとくに初期において漢語を十分に生かして,新風をつくった。漢語は先だって談林俳諧にもとり入れられ,古典的な作風をよしとする貞門俳諸への抵抗の武器ですらあった。いや漢詩文はそれ自体が古代前期以来独自のジャンルをつくってきたほどで,こうした海外文学との対応は,とくに近代文学の理論的裏付けにおいて熱心に模索された。第2に日本人における宗教の多様性が日本文学の大きな特色を形づくっている。日本人ははなはだあいまいな形ではあるが,神道と呼ばれる固有宗教をもつうえに,大陸から儒教と仏教とを輸入し,また西欧からのキリスト教の影響も上に述べたごとくである。そしてこれらの宗教はかなり異質であり,それぞれの理念によって日本文学をはぐくみ,それぞれの特色をもった文学を樹立した。すなわち神道は汎神論的に自然万物のなかに神を見出し,その神々に包まれていることの安寧を重んじるといってよいであろう。古代文学におけるアニミズムは,平安朝後宮のような都市型の文学のなかでも生命と結び合った自然を把える方法のなかに生きており,下っては村落共同体を統轄する原理として存続した。明治期,諸制度一新のなかで中央志向体制ができたとき,人々がいっせいに感じた故郷流離の情もまた,そこに由来した。この神道感に対して仏教は現実を徹底的に否定して,現実に対する観察を十分に成熟せしめることに成功した。源信の『往生要集』の浄土・地獄の思想,道元の『正法眼蔵』などの法語の数々は,本来叙情的な日本人に論理的な思考を与え,その後に生み出された傑作である。また直接仏教上の著作をするのではないが深く仏教を沈潜せしめた文学者の活動もあり,諸行無常万物流転の相の上に人生の深奥部を歌ったのが古代末期の西行や近代の俳人種田山頭火(1882〜1940)がいる。また儒教の導入はその理想主義を日本人に教えることとなり,古代では菅原道真の『菅家文章』(900年成立)や『本朝文粋』(1058ごろ)となり,近世儒学者たちの詩文となった。また封建制の支配体制による現実認識に思想的根拠を与え,武士たちの理論的なより所として朱子学の導入から古学・古文科学へと展開をみせた。のみならず近世の読本も,儒教思想にもとづく作品をうむ。こうして本来あい容れざる宗教思想が,融然と文学を育てていることも,大きな特色である。さらに第3として,わが国の風土条件が文学形成に関与している面も大きい。わが国の風土が気候温暖で多湿なモンスーン地帯だというのは常識的にいわれるところで,もちろんより細かな地域差は数えあげればいくらでもあげられようが,まずは大きく,そのように全体を考えてよいであろう。その結果日本の文学は柔和にして湿潤な作品を多くもつようになった。ミスティな文学と,日本文学を呼ぶことができるだろう。それはけっして闘争的な声高な自己主張にみちたものではなく,たやすく融和する集団的・没我的な表現主体をつくる。われわれが17音という短少な詩形を国民詩としてもちえているのは,季語を代表とするおびただしい約束がとり交されているからである。春雨といえばそれ,夜寒といえばこれと,小異をすてた風土的共同体を構成する心情の上に,俳句は成立する。
(1/2:続く)
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