50音順    検 索

●日本文化 にほんぶんか

アジア 日本 AD 

【日本文化論の歴史】日本文化ブームは,近代日本の発展のなかで何回か試みられている。日本文化の独自性の強調は文明論と結びつくより,普遍性より日本の特殊性の強調のなかで試みられることが多かった。それは明治維新において,普遍的世界の認識への見通しと民族の独立への努力が生き生きとして生命をもっているときには,そうした面への入れ込みは少なかった。それが世界の状況が変化し,国家的利益を打ち出しすぎて普遍的世界の追求が危機に追い込まれるなかで,自由民権とつながる啓蒙的文明論=文化論の主張をつづけている。しかし底辺の民衆は「文明」へ反乱をつづけていた。それに対し豪農商工は,底辺民衆の自立の動きに対する自己の指導性回復のためには「文明への反乱」を抑止しようとつとめた。〈文明開化ト称スルハ第一公令ヲ遵奉レ次ニ大凡 習ヲ勉励シ正道正路ヲ以テ一家ヨリテ区内全国ニ至ル其志ヲ及ホシ同人ニ救助ノ情実ヲ失ウ可カラサル〉(北条県第21区会議決書明治7年12月大岡家文書)といって,村落共同体(百事相互扶助)とのつながりを求めている。それによって,豪農の指導力の復権を世直し状況巻き返しのなかで果たそうとした。国会開設期成同盟の階級闘争の署名者の大部分は,このクラスの人々によってつくられたものである。それらは共同体を打破して「文明」の名による底辺民衆の再編成であった。言い換えると,「文明」とは何か。「文明」(西洋文明),それも真に国民のためにはかる万機公論を掲げた文明かどうかを問うものであったが,必ずしもそうした次元のものとはなっていない。その一面が,文明は未開・野蛮よりすすんだものとし,日本を取り巻くアジアに未開・野蛮を見出し,脱亜入欧を求めることとかかわっている。歴史学における文明史観もその典型的な現れであった。

 明治政府は国際化に力を尽し,積極的に産業開発につとめ内外博覧会への参加を通じて,産業コミュニケーションを発達させ近代化につとめた。これは,内務省の上からの近代化政策であったが,伝統工芸の近代化にも貢献し,地場産業にも大きな刺激を与えることに成功した。しかし,明治10年代の後半になると文明と開化の区別が行われていく。言い換えると,開化は行われたが文明を身につけていないとの考え方が生ずる。従来,日本への対文化の伝来は中国を主体としたものであったが,文明開化はヨーロッパ文化で,まったく異質であったことも文明と開化を区別させ,文明開化を政治的な性格の強いものとし,ヨーロッパ文明の内面的なものを吸収させなくしている。それが,開化政策や西洋文物へまつわる流言をもたらせた。

 また村落居住者の行動様式の特徴・縁のごときに求めたり,日本人の生活心理分析を考えている。また日本人の人格構造を理解するために,日本人の「甘えの構造」に着目したりする方法も存在している。このような方向や分析をみると,戦前の日本文化論とはまったく異なった次元に立っているといえよう。別な視角からみるオールコックは,日本文明において人民は排外意識とまったく無縁であり,物資文明に限れば,日本人民の達成したものは高度だと考えている。とくに日本人がすべての東洋諸国民のなかで,物資文明においては最前線・機械設備は劣っており,機械工業や技術関連の応用科学の知財が劣っているということがなければ,日本人はまさしくヨーロッパと比肩しうる優秀性をもっていると述べ,潜在的な物質生産力は劣っていないと述べている。またオールコックは,神権的要素と家父長的要素との虚偽の結合の強さに驚いている。オールコックの助言にもかかわらず,日本は文明の内容深化を忘れて開化に走った。そうしたなかで甦ったのが,家父長家族の新国家観の形成であり,その上にたつ東西文明融合論である。そして自由民権の体制危機突破のため強力道徳立国論を打出し,独立国体裁と面目を発揮しようとし,「国民道徳」を国教としてつくりあげた。しかし,蘇峰らは文明開化の内在化を求め,平民レベルに密着する道を模索している。日本文明の未来にかける強兵的平和主戦を打ち立てようとつとめた。

【戦後の日本文化論と近代化論】戦後の日本文化研究は,日本的な生活様式や社会的行動の型の容体的側面の分析に力を注いでいる。それによって,国粋主義的独善にもとづく国家政策への反省に出発している。その契機にベネディクトの『菊と刀』の果たした影響は大きい。これをめぐってさまざまな批判が日本の研究者から出されている。和辻哲郎はこれを全面的に否定して,『菊と刀』は,日本文化の型を示したものではなく,日本軍人の型を示したものにすぎないと述べた。また『菊と刀』は資料の不正確さに加えて,日本文化の時代的変化や重層性を無視した非歴史的一般化でしかない,と述べた。このなかで,風土的構造的特徴と考える視点が出された。また自然と意気と諦念のごとき日本的性格が,自然と人間の自由のかかわりの求め方として問題提起され,改めて九鬼周造の『いきの構造』などが大切な視点として甦っている。

 明治以後の多くの日本文化論は,日本の近代化とのかかわりにおいて展開されている。民主化を目標とし経済成長を遂げ,戦後の日本文化論を展開していこうとつとめる。とくに内からの近代化につとめ,外からは「アジアの例外国」とされてきている。「和魂洋才」とか「大和魂と西洋の物質文明」という形で,近代化のなかで和魂を大切にすることを明確にしていたのである。とくに夏目漱石は,日本の近代化=文明開化は地道でなく,飛躍を求めているものと述べ,もっと内面的近代化を要求している。

 このような漱石の明治の文明開化批判に対し,戦後の日本では,日本文化=雑種文化論批判として提示している。その雑種文化批判には二つあって,日本文化の純粋化を求めるものと,西洋文化化をより徹底しようとするものとである。そうした方向に対し,日本文化=雑種文化に積極的意味を見出そうとするものであった。これは東西文化の融合・混合化をもって,日本文化を位置づけようとすることにあった。この種の考え方は,いろいろな立場にたつ論者から同意が得られている。しかし,日本雑種文化成立の要因については種々の考え方がある。その一つに,日本の場合には強力な一神教があり,八百万神的であり,かつ神儒仏と融合的なものであり,あらゆるものが共存している。その上に内閉的・混血的であり,西洋的自我意識の薄弱性,無我の体験の強調,寛容な宗教・信仰・儀式のごときものであった。

 日本の思想などをみても,伝統と近代の相克より超近代と前近代の結合があり,そのため無構造の伝統の摂取とまで評されている。日本の急速な近代化の原動力について言えば,西欧では普遍主義的他者本位より個別主義的自己本位であるのに対し,日本においては,理念的文化と制度的文化とのあいだの相対的優位性を認めたり,タテマエとホンネという価値の二重構造性を明らかにして,日本文化の行動的特殊性を明らかにしようとつとめた。さらに日本文化は,日本社会の擬似的家族的構造と大きなかかわりを,そのような危機意識に支えられている。そうした動きを無視して,文明開化にのって啓蒙を説いて新日本の進路を求め第2の維新を説いても,それでは挫折をせざるをえなくなるのである。

 江戸時代には,町内入り込み湯(町湯)があり,裸のつきあいをしていたのに,明治になって町湯的なものは文明国の対面の論理で,外見を取り繕う形で衛生の論理のもとになくなっていく。そのくせ裸婦の絵を平気でみることを許さぬ論理が生まれてくる。加えて江戸時代には,遊日掟をつくって休日規定をつくっていた。そして遊ぶことぐらいは認め,山遊び・野遊び・水遊びを楽しみ,遊びに行くこと自体を悪いこととしていなかったのに,節句働きを奨励する形で勤倹節約・勤勉・立身出世の無粋で野暮をすすめ,義理を欠いた働きをすすめたのが,文明開化でさえあった。しかし以上のごとき視点は,少なくとも近代化=文明開化の立場では認められるはずもなかった。

 しかしライシャワー・ホール,その他による日本近代化論はきわめて政治的にすぎている。その第1は,日本を極東の近代化の成功したモデルと考えることにある。そして発展途上国のモデルとなるとの考え方にある。明治日本のひずみを過分に評価すること,第2に,日本批判に目をつぶっていること,第3に,日本における近代化批判の歴史を無視しすぎていることである。第4に,中国初め周辺国の日本近代化モデル論批判を余りにも軽視しすぎていることではあるまいか。そうした誤りに眼を覆いたくない。それは余りにも日本研究が政治的思慮のなかで,日本研究が行われすぎたためではなかろうか。むしろ,それよりもっと非政治的立場にたつ研究がのぞましい。

 近代日本において,日本文化が自覚的に取り上げられた五つの時期をあげてみよう。[1]明治の文明開化期の啓蒙主義,[2]明治20年代のナショナリズム(一連の国粋主義的風潮といえる),[3]日露戦争後から明治末年の家族国家観形成期,[4]大正デモクラシーの後の国民精神の作興の時期,[5]1930年代の日本精神論,いわゆる皇国史観の盛んな時期,ということができる。それを日本回帰とかかわりをもつ伝統と,近代の相克の時代ともいってよい。[1]は,福沢のごとく脱亜入欧にいたるほど欧化主義に生きた。[2]家族文化主義へ反対して,平民主義の立場にたつとともに,天皇制国家構築のために日本の独自性を打ち出したとき,[3]日本文化独自性を強調して,日本特殊国の論理を確立したこと,[4]日本国民性論を盛んにし,世界における民主的革命的風潮に対し,日本独自性を強調したとき,[5]民衆の常態への関心をもちながら,そうした方向に決別して日本なり日本文化を閉鎖的国家的なものととらえて,農本主義の上に立つ空虚な無限求心運動を説いている。

 なぜこれほどまで日本文化を強調するのか,それは,天皇制国家としての一異性を保つために,自己陶酔性がほしかったからである。とくに,アジアという文化形成の基点から離れて,対ヨーロッパ志向をもちつつ,アジアは一つといいながら,すべて日本においてアジア文化の独自性が成立し,ヨーロッパ文化に対する優位性を確保することが可能となると言い切った。しかし,そのとき日本人は,日本をアジアから独立させている。

 たとえば,与謝野鉄幹は明治28年の夏ソウルにあってチフスに病み,『韓にして如何でか死なむ』で,〈韓にして,如何でか死なむ。われ死なば,をのこの歌ぞ,また廃れなむ〉〈韓にして,如何でか死なむ。今死なむ。今死なば,みやび男とのみ,世は思わらむ〉と詠む。まことにとるに足らぬものであるが,アジアとの連帯の心を得ない。彼は,韓に亡国の兆をみたのであるが,罵倒・嘲笑を超えた連帯の心はまったく一片もなかった。そのあと鉄幹は志士的憤慨を超え,内部亡国の志の克服を求め『人を恋る歌』をかいて,相思・悲憤の上で近代国家と衝突して,反権力のナショナリズムに生きたが,そこにはまったくといってよいほど,アジア連帯主義の成立する何ものさえなかった。

 志賀シゲタカ※注1※(しげたか)は,台湾・樺太を日本本来の版図として疑わない日本列島延長線上に置く考え方をもち,富士山を国粋のシンボルと重視し,国戦伸張のシンボルとする考え方にもたっている。そして富士の拡大のなかに,日本の発展を見出そうとする素朴な考え方をもっていた。そうしたなかで,日本人で西欧近代と接して帰朝した人々は,求道者となるか傍観者になるかは別として,明治人らしく日本国の未来を思い憂えている。そこで,日本を西洋より吸収するに急にして消化するにいとまなきなり,文字も政事も商業もみなすべてそうである。

 また漱石は,ヨーロッパ文明の失敗を明らかに貧富の懸隔のはなはだしきにあるといいながら,カール=マルクスの考えのようなもの,右にいずるものは今日にはなしとさえいっている。これをみても,日本もやがてこの問題を解決しなければ亡びると漱石は考えていたのが分かる。そして,ひたすらに明治国家の富国強兵政策に反発して,平民を大切にする方向づけを求めている。そうしたなかで,今一度振り返ってみるべきことは,常人の精神や暮らしであったのではあるまいか。

 柳田国男は,早くから常民を意識している。彼は明治国家に絶望したけれども,常民の幸福のため近代化に必要な調査・計画・準備作業を通じて大きな課題と対決している。郷土会運動をおこして地方改良政策と闘いつつ,日本民俗学づくりに努力した理由も明治農政批判にあり,彼なりに農民の窮乏を解決したいと考えたことによる。本来,国民の生活の主力であるべき常民に目を向けたのは,それを主力と認めない政策への懐疑にあり,これを国民共同の疑いと説こうとしたのである。衣食住の智恵への関心もそこから生じ,単なる伝統回帰・日本回帰の位相を示すのでなく,反近代と生活に根拠を求め,日本の固有信仰とのかかわりを求めるものであった。それもサムライ型の日本でなく,日本人の生活態度の精神的固有性とのかかわりを求めるものであった。柳田の学問は,ヨーロッパでいう民俗学であるが,それより普遍的な日本文化論であり,国家の伝統を継承する新国家であり,文字をもたない民衆=常民の歴史を,口承伝承に求めながら日本文化論を展開したものでもある。

 このような日本文化論に対して,日本研究・日本学研究とどうかかわるのか一新すべきところがある。国家は,文献学的アプローチを一古代人の意を古代の文献のなかにしか現れないと考えている。そして歌道を尊重している。この本居宣長の考え方は,明治になって芳賀矢一や上田萬年によって受け継がれ「文献学」と訳述されている。しかし,そのもとに本居は古道を求めているが,どちらかというと,超歴史的パターンとしての文化学であり,国家が総合的学問であったと同じように,有機的統合的な相関関係において構成される学問である。日本には,農村の類型を求める学問があり,村の原型を請託組合同族型に求めるかどうかなどの検討をしたり,親分−子分関係に求める考え方がある。地縁結合を強調するか,それより血縁関係・族縁関係を主と考えるかなどの議論がある。祖先神たる氏神か,マレビト論を考える二元的なものかどうかなど,日本固有なものの理解にもさまざまなものがある。いずれにしても,総合的視野が必要であるとの考えは,東西比較文明論の系譜につながるものである。賀茂真淵菅江真澄もともに旅行家である。ものをなるべく広く考えるところに国家の契機があったのであり,これを忘れたときを国家の死滅といわざるをえない。したがって,文明学と国家とは結びつく契機は大いに在存する。

 戦後になると家族主義でなく共同体となり,父の子という言い方でなく兄弟姉妹のような平等関係を示している。これが現代の家族のあり方である。家は実態でなくメタファーであってイデオロギーとなっており,それが家元擬似となっている。現代文明乃至近代文明なる概念は,日本文明としては外来文化をどう受容してきたかというと,折衷・習合・置換・融合・並立というあり方になっている。日本文明のなかには和式と洋式とがあり,この二つは結合された型で存在している。しかし,それらは前述の折衷以下とかかわっている。政治は日本では「まつりごと」であり,オオヤケなるもの,最も顕著な現象である。ここに政治がオオヤケを打ち出している。公=洋の優位,私=和の劣位が守られている。伝統的にはオオヤケの利害が先であり,オオヤケの権利に制限を加えることが私欲とされ,悪いことと判断されている。日本文化の危機はこうした攻勢のなかで生ずる。

 現代日本文化につながる生活文化は,室町時代くらいまで遡る。けっして平安時代の鳳凰文化に遡ることはできない。民俗文化にとっても,やはり同じ時期くらいと考えられる。市民という表現を歴史的にみると室町期と考えてよい。それは,院政期より南北朝内乱期に活躍した人々とも考えられる。まさに都から町への移行のなかで衆が形成され,これが町衆へと変わってくる。この人々によって民衆の文化が荷担されている。この人々は,芸能というものを寄合性と結座性をもって担っている。宮座・商業座と同じように,寄合という性格のもとに大衆性をもっていた。しかもそのサロンを維持する人は,和睦調停案者であったり司令案者的役割を果たしていた。ただ世の中は狂気の段階もあるし,狂気を否定する時期もある。それによってかぶきを求めるとき,好きのみを求めるときもある。数奇張行に美を見出すときもあるという。

 以上のことから,日本文化にはいろいろ寄合性が存在する。寄合の文芸はその寄合性を示す。参加する人々が複数であるのみでなく,寄合った人々がそのプロセスで,すべてが参加するところに特徴があり,その当座制ゆえに個が全体の切り離されることなく生かされている。集団性と当座性を併せもって,初めて寄合の文芸の意義を発揮する。個の文学より座の文学をもっている。ところで,座敷の出現は「会所」の系譜のなかで考えられるべきで,これも南北朝内乱のころから多くなる。会所のなかには,茶会もあり喫茶亭もあった。会所は室町殿のなかにもあり,そうした会所が次々増やしている。そこでは猿楽・田楽・松柏子・和歌・連歌・茶の湯の殿中行事が行われた。会所への関心は,会所の内部構造の変化である。書院造が会所として生きること,それによって立礼が成立することも生かしたい。そのなかでしだいに日本化をすすめている。これをみると,明らかに集団志向性が高く和を尊ぶもので,タテの親分−子分的構造を基本としている。和を尊ぶことは人間相互の和のみならず,自然との和をも意味する。

 日本文化を考えるとき,日本的という用語の成立が気にかかる。長明寺入道時頼は雑役につとめ,その信仰に禅密という要素が,禅を中心として矛盾なく包摂された。このような禅こそ日本化された禅である。日本禅は,碧巌録・無門関の参考書をつくりあげ,公案問答を形成化していった。このような日本禅の特質は室町期につくられている。やがて日本文化のユニークさを和と協調,自然との調和,タテ社会・腹芸・ワビ・もののあわれなどの日本文化を特徴づける文化的要素の例であると言い切っている。それは,やがて会社のモットーにも利用されている。これは,けっして科学的検証に耐えるものかどうかというとまったくそうでなく,文化論はまったくタテマエであり,イデオロギー以前のものである。さらにこれを外的なものとして国際化する。そのなかで,内的背景として洋化優性を乗り越えることが求められる。

〔参考文献〕梅棹忠夫・石毛直道編『近代日本の文明学』中央公論社

土方和雄『「日本文化論」と天皇制イデオロギー』1983,新日本出版社

00