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●日本美術院 にほんびじゅついん

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 1898年(明治31),東京美術学校の初代校長で36歳であった岡倉天心は,日ごろの奔放な言動や私行が問題となり,排斥運動がおこり文部省から罷免されるという事件となった。この文部省の処置に反対して二十数名の教員がいっせいに辞表を提出するという事態となり,橋本雅邦・六角紫水・横山大観下村観山・寺崎広業・小堀鞆音(ともと)・菱田春草らはこのとき辞職した。彼らは岡倉天心の下に集まり,天心のかねての計画であった美術の大学院をめざした日本美術院を結成した。この年第1回展を開き,大観の「屈原」・春草の「寒林」などが大きな反響を呼び「朦朧派」の呼称も生まれた。しかしこの発足は時機尚早であったうえ,天心がボストン美術館東洋部長として渡米してしまうと,その中心を失い解散状態に陥った。ところが天心が1913年病没すると翌年,官展に飽き足らぬ大観や観山らが天心の遺志をついで日本美術院を再興,今日に及ぶ有力な美術団体に発展した。