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●日本の参戦(第一次世界大戦) にほんのさんせん(だいいちじせかいたいせん)

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 第一次世界大戦が勃発してまもなく日本はドイツに対し宣戦を布告し,陸海軍による青島の攻略を行うとともに海軍は艦隊の一部を遠く地中海にまで派遣するなど連合国側に立って戦争に参加したこと。

【対独宣戦】1914年(大正3)8月5日,欧州に戦乱が始まった。同月23日,日本政府はドイツに宣戦した。日本の参戦理由は,日英同盟に根拠を置いたが,日英同盟は必ずしも日本の参戦を義務づけるものではなく,また英国からの強い要請があったわけでもなかった。日本はこの好機をとらえ,世界における日本の地位を高め,ドイツの勢力を東洋から駆逐して東亜における日本の立場を一段と強固にしようとしたのである。アメリカ国務長官ランシングは,日本の参戦を中国に対する野心からとみていたし,イギリス海相チャーチルは,三国干渉に対する復讐であろうとみていた。ただ当時の日本海軍部内では,政府の政治的意図や種々の思惑とは別に,日露戦争中の英海軍の好意と支援に対する恩返しという意味で,この参戦を歓迎するものが多かったことを付記しなければならない。

【参戦第一段作戦】参戦した日本軍の作戦は,ドイツの青島要塞の攻略と,ドイツ海軍勢力の太平洋からの駆逐が第一段作戦となった。東洋におけるドイツ軍の主根拠地は青島であった。ドイツ軍は8月初旬から兵力約5,000,砲約130門を集結し,要塞を堅固にして着々戦備を整えていた。また青島を根拠地とするドイツ東洋艦隊は装甲巡洋艦シャルンホルストグナイゼナウを主力とし軽巡4隻を含む有力部隊であった,日本陸軍は神尾中将の率いる第8師団,野戦重砲兵第一連隊および攻城部隊若干で,海軍は第2艦隊,英軍若干が協力し,9月2日上陸を開始,11月7日青島攻略を終えた。一方ドイツ東洋艦隊は開戦と同時に出港し行方がわからなかった。日本海軍は山屋中将の率いる第一南遣支隊(巡洋戦艦鞍馬・筑波など)をもって南洋群島方面に,さらに英国の要請により,松村中将の指揮する第二南遣支隊(戦艦薩摩その他)を,豪州軍の欧州輸送保護のため南方に派遣した。両支隊は対敵行動上,南洋に作戦基地を獲得する必要から,10月中旬までにドイツ領南洋群島の諸島をことごとく占領した。さらに英国はドイツの軽巡エムデの神出鬼没の跳梁に手を焼き,日本に援助を求めた。そこで日本海軍は加藤大佐の指揮する特別派遣隊(巡洋戦艦伊吹その他)を編成し,英東洋艦隊に協力させた。エムデンは11月9日インド洋のココス島で豪艦によって撃沈された。なお独東洋艦隊は南米方面で英艦隊と戦い,ついにフォークランド海戦(12月4日)で撃滅された。

【参戦第二段作戦】1917年1月,英国は連合軍の海上交通が危機に瀕し,英国の食糧事情が極度に逼迫したため,日本に対し,通商保護の艦隊派遣を要請してきた。これに応じ,日本海軍は3個の特務艦隊を編成した。小栗少将の率いる第一特務艦隊(軽巡対馬・新高)は,1917年6月下旬英南阿艦隊の基地サイモンスタウンに進出,前後2カ年にわたって独武装商船の警戒に任じ,山路少将の第三特務艦隊(軽巡筑摩・平戸)は同年終わりごろまで主として豪州東岸に行動した。軽巡明石を旗艦とし,駆逐艦8隻よりなる第二特務艦隊は佐藤少将が指揮し,1917年4月ポートサイドに入港し,その翌日から1918年11月の休戦までマルタ軍港を基地とし,主として,マルセーユ―マルタ―エジプト間,タラント―エジプト間の主要航路において護衛任務についた。この間,第二特務艦隊が単独で護送した回数は350回,軍艦輸送船の合計787隻(うち英船643隻),乗員数75万人に達した。日本軍の損害は,駆逐艦2隻損傷,戦病死者78名,うち73名はマルタの墓地に葬った。以上のごとく各派遣隊はいたるところで日本海軍の真価を発揮し,よく連合国の要請に応えた。

【ヴェルサイユ条約への影響】1919年のヴェルサイユ条約において,わが国は,山東省の旧ドイツ権益の継承が認められ,赤道以北の旧独領の南洋群島の統治が委任された。