●日本の国連加盟 にほんのこくれんかめい
AD1956
第二次世界大戦後の平和を目的とする国際機構として,1945年(昭和20)10月成立した国際連合に,日本は1956年12月加盟した。武装を完全に解除された敗戦後の日本にとって,サンフランシスコ講和会議を迎えるにあたり,最大の不安は独立後の安全をいかにして確保するかにあった。とくに当時,米ソのいわゆる冷戦は激化の一途をたどり,西では1949年4月戦後最大の危機と全世界を心配させたソヴィエトによるベルリン封鎖が強行される一方で,1950年2月,突如中・ソ両国により〈日本帝国主義の復活および日本国の侵略行為について,なんらかの形式で日本国と連合する他の国の侵略の繰返しを共同で防止する決意〉を宣言した中ソ同盟条約が結ばれたのである。遠近二つながらの急迫した国際事態は〈直接には,自衛権を否定しないものの,一切の軍備を保持せず,国の交戦権も放棄した〉日本の絶対平和主義に深い反省を呼びおこさずにおかなかった。ときもとき,同年6月20日朝鮮動乱の勃発をみたのであるから,もはや中立主義などがありえないことを日本国民は痛いほど悟らされた。同時に朝鮮動乱の勃発に際し,機を逸せず敢然と立ったアメリカをはじめ国連諸国の対応を目のあたりにして,日本国民は国連への信頼を一段と深めた。このことについて,吉田首相は,同年7月14日,国会での施政演説のなかで〈国連諸国が敢然として立って,多大の犠牲をかえりみず,被侵略者の救援に出動したことは,われわれの大いに意を強うするところであります。万一,大戦争が勃発した場合,わが国が軍備撤廃を行なった結果,わが安全保障はいかにするか,いかにして保障せられるかということは,国民が常に懸念するところであります〉と前言し,つづいて国連の今回の措置のわが人心に及ぼした影響の大きいことを指摘し,わが国として,できる範囲の国連への協力を行うことはきわめて当然であると断じた後,〈…かかる事態に直面いたしまして,いまなお全面講和とか永世中立とかいうような議論がありますが,…全く現実から遊離した言論であります〉と論じ,これからの日本の安全保障を国際連合に托する必要性を広くアピールしたのである。しかし同時に吉田首相は,国連の加盟には時間がかかることを十分に承知しており,また日本の安全保障にとってアメリカの存在意義を深く理解し,アメリカとの取り決めを国連とは別に秘密裏に進めていた。かくて講和会議を迎えるが,1951年9月8日成立した対日平和条約は,前文2項に次のごとく記述した。〈日本国としては,国際連合への加盟を申請し,かつあらゆる場合に国際連合憲章の原則を遵守…する意思を宣言〉し,連合国は〈前項に掲げた日本国の意思を歓迎する〉。さらに第5条において〈日本国は,国際連合憲章第2条に掲げる義務(注,内容省略)を受諾し,連合国としては,日本国が主権国として国際連合憲章第51条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取り決めを自発的に締結することができることを承認する〉と規定した。吉田首相の判断措置は正しかった。すなわち国連加盟は著しく遅れた。しかし一方日米安保条約は講和条約と同時に締結され,また同時に発効した。国連加盟については,講和条約発効直後の6月23日,国連事務局へ加盟を申請し,同年9月18日の安保理事会で,理事国11のうちソヴィエトを除く10カ国の支持があったが,対日平和条約を承認しなかったソヴィエトはここでは拒否権を発動して葬ってしまった。さらに同年12月21日および1955年12月8日の2回の国連総会でも,ソヴィエトによって拒否された。したがって日本の国連加盟が実現するか否かは,一にソヴィエトの出方いかんにかかった。1955年6月ロンドンで始まった日ソ交渉は,一時中絶したが,同年10月9日には鳩山一郎首相の訪ソに進展し,同19日,日−ソ間の戦争状態の終結および国交回復の日ソ共同宣言と通商航海議定書の調印をみるにいたった。これを受けて,1956年12月18日の国連総会で全会一致で可決され,80番目の国連加盟国となった。
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