●日本の外交 にほんのがいこう
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【特色】日本が徳川時代の鎖国体制を脱し,国際社会の一員として歩むようになってから,1985年まで約130年たっている。この時代を大きく時代区分すると,第二次世界大戦の終了した1945年(昭和20)以前と以後とに分けられる。前期は90年,後期は40年にすぎないが,前者は軍事国家としての色彩が顕著であり,後者は敗戦の結果として経済優先の政策をとっており,それが各時期の日本の外交に反映している。外交には国際関係の処理という技術的面と,一国の対外政策の実施という政治的面とがあるが,外交政策の決定や外交の運営にあたっては,その国の政治制度・経済基盤・国民感情などに左右されることが多い。戦前の外交では,政府(外務省)のほかに,元老・軍部・枢密院などが大きな影響力をもち,ややもすれば二重外交の弊におちいったが,戦後はそれらの制約から脱却したとはいえ,アメリカとソヴィエトという強大国の対立のあいだに介在し,圧倒的にアメリカヘの依存度が強く,また長期政権がつづいているために外交活動が直接間接に制約をうけ,ときには活性化・融通性を失いがちであるという一面も否定できない。【日本外交の歩み】1853年(嘉永6)アメリカのペリーが来航し,徳川幕府は世界の大勢の前に開国を余儀なくされた。翌年日米和親条約(神奈川条約)がむすばれ,さらに1858年(安政5)日米修好通商条約が,つづいてイギリス・ロシア・オランダ・フランスの各国とも同様な条約が締結された。これら安政の五カ国条約は,いずれも片務的な領事裁判権が定められて外人は治外法権を有し,また関税自主権は認められない不平等条約であった。日本の開国が,19世紀のなかばに軍事力を背景とする欧米列国の圧力によって促進され,不平等条約体系に組み込まれたことは,その後の日本の進路にも大きく作用した。明治新政府が発足してからも欧米と同化し,ほかのアジア諸国と違った近代化をとげるという,いわゆる“脱亜入欧”のコースをとることになり,条約改正は日本の軍事体制の強化,中国・朝鮮の従属化と併行して行われるという特質をもつことになった。条約改正は,法典の編纂や諸制度の確立を急ぎつつ,諸外国と交渉のすえ,ようやく1894年(明治27)第2次伊藤内閣の陸奥宗光外相時代に,日英通商航海条約の成立により治外法権を撤廃できたが,それは日清戦争の直前であった。その背景には英・露の対立があり,イギリスが日本を認め自己陣営におくことを有利とした国際政治の動因も作用していた。とくに1900年の義和団事変後は,日本はイギリスおよびアメリカの極東政策の利害を代行する形をとり,1902年には日英同盟をむすび,ロシアの極東進出を阻む役割をになった。そこには,内政が混乱し,中国やロシアの介入を許しやすい韓国を支配下におこうとする日本独自の希望も働いていた。こうして日露戦争(1904〜05)に突入し,勝利を得て大陸進出の足がかりを確保し,1910年には韓国を併合し,翌1911年第2次桂内閣の小村寿太郎外相のとき関税自主権を回復し,念願の条約改正を達成した。このように名実ともに帝国主義国家の一員となった日本は,従来協調してきた英・米両国とのあいだに利害の衝突をきたしたが,日−米間では移民問題が,日−英間では中国,とくに満州への発展を企図する日本との商業・貿易上の摩擦が主因であった。戦後経営の困難に直面した日本は,各国との協調を余儀なくされ,米国に対しては移民の自発的制限,1911年の第3次日英同盟における米国の適用除外などにより調節をはかった。しかし1911年10月におこった辛亥革命では対中国政策をめぐって英国と対立し,日本外交の支柱であった日英同盟も有名無実となり,かつての敵帝政ロシアと協定し1907〜16年の4回にわたる日露協約を締結して,満州・蒙古における利益範囲を設定する政策をとった。
1914年に第一次世界大戦が始まると大陸政策実現の好機とみた日本は,進んで英国側に立ってドイツに宣戦し,1915年には中国に対し日本の広範な権益を認めさせた,いわゆる21カ条要求をおしつけた。さらに1917年のロシア革命に伴い,翌年シベリアに出兵し,米国その他が引きあげたのちも駐留しつづけた。第一次大戦が終わりヴェルサイユ会議では,日本は5大国の一員とはいえ,欧米中心の国際場裡では独自性を発揮できず,民族主義にもとづく朝鮮や中国の反日運動に悩まされた(1919年の三・一万歳事件,五・四運動)。1921〜22年(大正10〜11)のワシントン会議では太平洋に関する四カ国条約,中国に関する九カ国条約がむすばれ,日英同盟は廃棄され国際的孤立が深まった。これからしばらくのあいだ,日本は国際連盟の常任理事国として諸外国との協調に努め,それまでの露骨な軍事的・政治的進出策を改め,経済的利益を追求する,いわゆる幣原外交の時期にはいる。幣原外交は中国に対する不干渉政策をとったが,中国の利権回収運動・反日運動に直面して,国内では幣原外交非難の声も高まりこれに代わって田中(義一)外交が登場した。田中は居留民保護を理由に山東出兵を強行し,中国との対立を深めた。1931年(昭和6)には,満州を直接支配しようとした,陸軍中央の一部と関東軍の陰謀によって満州事変がおこり,満州国樹立・国際連盟脱退へとつづき,1920年代日本外交の基調であった国際協調主義は壊滅した。国際的に孤立した日本は,日満華ブロックの形成をめざし,再び武力を背景とする大陸政策を進めようとして日中戦争(1937年)をひきおこし,一方ではソヴィエトや共産主義の脅威を除くためにドイツ・イタリアとのあいだに防共協定をむすび,1940年の三国同盟にまで発展した。そのため日本はいっそう英・米などと対立を深め,太平洋戦争に突入した。 日本は1945(昭和20)年の降伏によってアメリカ軍を主体とする連合軍の占領下におかれ,外交機能は失われた。米・ソを中心とする冷戦が進行して日本もその影響をうけた。1951年サンフランシスコ講和条約と同時に日米安全保障条約をむすび,いわゆる安保体制が確立した。二つの中国に対しては台湾政府と平和条約をむすび,中華人民共和国とは政経分離でのぞんだ。ソヴィエトとのあいだでは1956年に日ソ共同宣言が成立,平和条約の締結はもちこされたが,日本の国連加盟は実現した。1960年には安保条約の改定があり,1965年には日韓基本条約成立,1971年6月沖縄返還協定が調印され1972年5月15日に発効した。大きな懸案だった中国との関係は1972年9月29日に日中共同声明が北京で発表され,中華人民共和国政府が唯一の合法政府であることを確認した。1978年8月12日,日中平和友好条約が締結され,中国は中ソ同盟条約を破棄した。1980年代にはいりアメリカにレーガン政権が誕生し,米−ソ間の対立が厳しくなると,日−米間には経済摩擦が拡大する一方,軍事的提携の絆を固くする傾向にある。
【外務省の機能と沿革】対外関係事務を主管する行政機関が外務省で,その任務は[1]外交政策の企画立案および実施,[2]通商航海に関する利益の保護および増進,[3]外交政策上の経済協力の推進,[4]外交官および領事官の派遣と接受,[5]条約その他の国際約束の締結,[6]国際連合その他の国際機関との協力および国際会議への参加,[7]外国に関する調査,[8]内外事情の報道および外国との文化交流,[9]海外における邦人の保護ならびに海外渡航・移住の斡旋(外務省設置法第3条,1951年公布)である。1869年(明治2)7月8日(陽暦8月15日)太政官制の下に外務省が創設された。1883年(明治16)内閣制度の発足とともに,その長官は卿から外務大臣となる。外務省の場合は最初は転々と変わったが,1870年12月(陽暦1871年1月31日)に現在の東京都千代田区霞ケ関の旧黒田藩邸跡に移り,以来“霞ケ関”は外務省の別称となった。海外諸国に駐在する使臣の名称は1872年に特命全権公使・弁理公使・代理公使,一等・二等・三等各書記官に定められた。日露戦争後,欧米主要国の各公使館は大使館に昇格した。1873年1月弁事局・外事左局(欧州各国事務)・外事右局(米・アジア両州事務)・考法局・翻訳局・庶務局が設置され,外務省の機構はほぼ確立した。その後多くの改廃があり,1893年11月の行政整理による官制改革で大臣官房・政務局・通商局のみとなった。1919年(大正8)条約局が新設され1920年には政務局が亜細亜・欧米の2局に分れ,これに通商・条約の2局を加え,この4局体制が1934年(昭和9)までつづいた。同年亜細亜局が東亜局と改称,欧米局が欧亜・亜米利加の2局に分かれた。1940年南洋局が新設,1942年東亜局とともに大東亜省に移管された。太平洋戦争終了後,機構は大幅に縮小され,占領管理に伴う事務が主となり,外務省の外局として終戦連絡事務局が設置された。講和条約締結後の1951年12月,国際社会復帰体制を整えるため,大臣官房,欧米・アジア・経済・条約・国際協力・情報文化各局が設置され,その後部分的修正はあるものの基本的形態が整った。なお在外公館は1974年7月現在,大使館160(うち兼轄58),総領事館62(うち兼轄6),領事館2,代表部5となっている。
【現状と課題】日本は第二次世界大戦の敗戦と荒廃という体験をへて復興に努力し,戦後約40年をへて世界の総生産の約1割を占め,国際社会における役割は年ごとに高まっている。戦後の日本は一貫してアメリカと親密な関係を保っているとはいえ,1960年代からの日本の経済力の発展に伴い,アメリカやヨーロッパ先進諸国との貿易摩擦が生じた。1970年代からのアメリカの国際的主導権の低下にしたがい,日本の経済優先主義・防衛分担の過小に対して不満の声があがっている。ソ連とのあいだでは領土問題を棚上げにして国交回復がなされたが日米新安保条約改定後は,ソ連の態度は硬化し,容易に好転のきざしはない。アジア・中近東・アフリカ諸国との関係も戦前とは比較にならぬほど多様化し密接となった。これら諸国は日本の国際政治上の役割や経済・技術援助を期待しているが,紛争の要素をもつ国が多いだけに,その対応は簡単ではなく日本の対国連外交にも反映している。核兵器廃絶・縮小問題に対しても唯一の被爆国として独自の役割と発言が要望されているが,国際政治の冷厳な情勢により理想とはほど遠い。また最近の大量の難民発生・深刻な食糧危機への対応など,日本外交の役割はきわめて重い。
〔参考文献〕入江昭『日本の外交』中公新書
外務省編『外務省の百年』上下
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