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●日本鉄道会社 にほんてつどうがいしゃ

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 日本最初の民営鉄道会社。明治政府は,鉄道建設はすべて国の手で行うという,堅い決意をもって鉄道敷設のための工事を進めていたが,佐賀の乱・西南戦争などによって財政が圧迫され,幹線の建設も不如意となってきたので,幹線国有主義を変更せざるをえず,民間資本による私設鉄道を認めることにした。その最初がこの日本鉄道会社である。この会社は,旧大名・公卿たちが秩禄処分で得た公債(金禄公債)を元本とし,第十五国立銀行および華族,一部の士族,三井・三菱などの商人および鉄道沿線の地主・商人たちを主体として,資本金2,000万円をもって,1881年(明治14)8月1日に創立され,同年11月11日に政府の許可を得た。政府は,東北・北海道地方の開発や華士族の授産・軍事利用の目的でこの会社を手厚く保護し,初期の鉄道建設工事・汽車運転などを鉄道局に担当させた。そして1882年(明治15)4月,現在の東北線や高崎線の工事に着手し,翌1883年(明治16)7月には上野―熊谷間が開通し,1884年(明治17)には前橋まで開通,1886年(明治19)6月,大宮―宇都宮間も開通,そして1891年(明治24)9月1日,盛岡―青森間の開通により,上野―青森間が全通した。片道約26時間半,料金下等4円54銭を要した。その後,現在の水戸線・両毛線・常磐線を買収あるいは建設した。営業成績は良好であり,これが私鉄経営に刺激を与え,以後各地に続々と私鉄が建設されていった。さてこうしたなか,日清戦争による物価騰貴に苦しんでいた機関方有志が,1898年(明治31)2月2日,「我党待遇改善期成大同盟会」を組織,同僚である各駅の機関方・火夫に臨時増給・待遇改善要求運動を呼びかけ,その一方で会社に対して,会社首脳宛の個別の匿名嘆願とあわせ,25日を期限とする嘆願書を提出した。これに対し会社は,主謀者を探索,石田六次郎ら10人を解雇して闘争を弾圧しようとした。しかし機関方500人中400人が,25,26の両日いっせいにストライキに入って,上野―青森間の全線において列車の運転を停止し,さらに多くの駅における会社と警察の弾圧にも屈せず,行動隊を組織したりして整然と統一を保った闘争をつづけた。これがいわゆる“日鉄ストライキ”と呼ばれる,明治期最大の労働運動である。27日会社側の交渉受諾をとりつけたことによりストライキを解き,18機関車庫から委員24人が上京,3月6日には,解雇者の新規採用・増給などの要求をほぼ全面的に承認させたのである。こののち,機関方労働者は,“我党待遇改善期成大同盟会”を解散,同年4月5日,機関方・助手の入会を義務づけたクローズド=ショップ制による,温厚篤実・品行方正を目的とした,「日本鉄道矯正会」を組織した。この会は,本部を福島におき,18機関車庫に支部を設置,基金の積み立て(毎月日給1日分)や,機関誌の発行・会社の改革に力を注いだ。1899年(明治32)には会員1,000人,基金2万円に達した。この会は片山潜から“交戦的労働組合の見本”といわれ,また会員には熱心なキリスト教信者も多く,さらに有力幹部は禁酒会を組織したりして,労働組合期成会とも密接な関係にあった。当初会社は会に対して便宜を与えていたが,1900年(明治33)の治安警察法制定前後より圧迫に転じた。会もこれに反発して活発化し,1901年(明治34)4月には,埼玉県大宮市で開かれた年次大会において,〈社会主義が労働問題の唯一の根本的な解決である〉という決議が採択され,日本最初の社会主義政党である社会民主党創立のバック=ボーンにもなった。しかしながら,同年10月,東北地方で行われた陸軍大演習に際して,一の関―仙台間で統監列車が故障停止し,後続の宮廷列車が接近,からくも追突を免れるという事故が発生した。この事故を会社側と警察は,日本鉄道矯正会会員がおこしたものとして,その責任を会に負わせ,同年11月25日にはついに,警察から解散を命じられたのである。またこれ以後経営の実権は三井に移り,さらに1906年(明治39)の鉄道国有法によって,同年11月1日には国有化され,東北本線・高崎線などになっていった。