●日本的特性 にほんてきとくせい
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日本の呼称は古代から“にほん”と“にっぽん”の二つの読みかたがあった。1899年(明治2)の『大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)』と1946年(昭和21)公布の『日本国憲法(にほんこくけんぽう)』は“日本”の二つ読みかたを使い分けているが,前者は国粋的であり,後者は民主的である。日本的特性についての日本人の自覚は,明治以来の近代にいたって顕著となり,また明確化され,1945年以後の現代にいたって挫折と反省を繰り返した。明治以来の国粋主義は国家主義であるが,第一次世界大戦後の労働運動や大正デモクラシーへの反動としての皇国主義と,第二次世界大戦中の超国家主義とにみられるように,世界史的には偏狭な愛国主義として敗北し,挫折した。戦後の日本近代化論争は国粋主義に対する思想史的側面における反省を意味する。【日本の国粋文化】日本の国粋文化には,顕著なものとして神道と国学と天皇制の三つがある。“神道”を“しんとう”と呼称するのは,おそらく鎌倉時代以来のことと思われる。『日本書紀』用明紀に〈天皇は仏法を信じ,神道を尊ぶ〉とあるが,この神道は道教ではないかという学説があるように,この時期には神道の存在が確認できない。しかし神道はそののち仏教に対立するものとして発展する。日本の神は穀霊としての性格が強く,豊穣と幸福を人にもたらすが,大和神話の神々は神話的人格神として多神教的でもあった。西欧や中国のように都市国家の歴史を欠如した日本では,穀霊のような原始宗教がのちの時代にまでつづき,神道にもその影響は色濃く残された。原始宗教としての神道を合理化する試みとして,鎌倉時代の初めに仏教の教理と習合した両部神道が形成され,初めて“しんとう”と呼ばれた。また伊勢神宮の度会(わたらい)家を中心とする伊勢神道もこの時期に始まり,鎌倉新仏教の民間布教と仏教教団に対抗しようとした。外宮の豊受皇太神と一体である太元尊神は,穀霊であるともに,正直と清浄と祈祷のように宗教倫理による人間生活の合理化が追求された。江戸時代になると山崎闇斎の垂加神道や「国学」による神道が発展し,本居宣長の古学をへて平田篤胤の神道国教化運動が行われ,明治維新の廃仏毀釈や1870年の大教宣布の詔となり,第二次世界大戦中の神国日本にまで及ぶ。「天皇制」は,明治維新以来1945年の時期を本期とし,政治権力と精神的権威を天皇一人に集約し,倫理的価値体系の一元化が行われた。価値実体である天皇は国家支配の頂点に立ち,天皇からの距離が近いか遠いかによって権力と権威が設定された。八紘一字の世界像は天皇制の対外的拡張である。このような天皇制への批判は1932年の『日本の情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ』が出発点となって,日本資本主義論争に展開するが,1930年には当時の政権によって完全に弾圧された。
【国粋文化の挫折】第一次世界大戦後の市民活動に強い危機感をもった国粋団体が台頭する1917年(大正6)から1930年の昭和恐慌にいたる期間は“日本ファシズム”の時期である。北一輝の『日本改造法案大綱』は1919年に成立し,国粋思想は国家改造運動に姿を変え,1932年の五・一五事件,1936年の二・二六事件を境にして軍部ファシズムと大陸侵略戦争の時代となる。イタリアやドイツのファシストやナチスは大衆運動と大衆組織を基盤としたが,日本の軍部ファシズムは天皇制のもつ家父長的階層的秩序への信仰によって,上層の軍人・金融資本家・高級官僚が専制的に高度国防国家体制を推進した。その結果,太平洋戦争は1945年の敗戦という民族的挫折の悲劇に終わった。「国体」という日本固有の天皇制支配体制は神国思想や家政国家,あるいは封建武士の習いとしての忠孝の倫理など,日本の伝統的習俗や思想に支えられながら,これが国体明徴運動として対外侵略にまで進められたのは昭和初期からであった。天皇制支配と国体思想の結論は太平洋戦争とその挫折に尽きる。神道や国学や天皇制信仰は,それぞれの時代に歴史的役割を果たしたが,その挫折の史実を考えるならば,日本の現代史はそれらに対する反省から始められなければならない。
【日本独自の近代化】戦後の日本近代化の道程は,明治以来の近代化の二つの方式をその背景にもちながら,日本独自の近代化の道を歩んだ。二つの方式とは日本の社会革命への道と人間革命への道である。1860年(万延1)オランダに留学した西周は,英・仏の実証的経験哲学を紹介して,日本に初めて西欧哲学を輸入した。このような西の功利主義と実学は,文明開化の社会改革に貢献した。しかし西欧流の社会改革は安易に日本に定着することなく1877年以後,自由民権運動とその思想は日本の伝統を破壊するものとして指弾された。1884〜90年,ドイツに留学した井上哲次郎は,ドイツ観念論を学び,日本の漢学とともに倫理道徳の復興を企て,東大を中心とするアカデミー哲学を樹立した。明治末年から大正初にかけてのドイツ新カント学派の認識論や,大正末年から昭和初年にかけてのドイツのヘーゲル哲学の輸入は人間自体を対象とする人間学への道を開き,1911年の『善の研究』や1946年の『哲学論文集・第七』の著者,西田幾多郎の西田哲学は人間哲学とし世界的に有名である。一方,マルクス主義は,1922年に立党した日本共産党のもとに福本和夫の福本イズムが世界変革の運動方針を決定し,1932年,平野義太郎などの講座派が明治維新変革を絶対主義変革と規定した。西欧の改良主義的変革やマルクス主義的変革は戦後にも大きな力をもったが,日本独自の人格主義的人間学の伝統もまた現在に及ぶまで有力である。1960年,「日本の近代化」についての箱根国際会議は,ライシャワーらの発言を中心に世界史の発展段階が論じられ,技術水準やテクノロジーの質的量的史実の見地から,日本は高度近代国家と認められた。しかしそこには講座派以来の日本の後進性や太平洋戦争における戦争責任は問題とされず,このような没価値論的史観に対して,かえって日本人の側から反論が出た。日本国憲法の人類普遍の原理,すなわちヒューマニズムへの努力と反省は今後の日本の現代史には永遠の課題である。
【世界史的に見た日本的特性】西田哲学に代表される日本の哲学は人格主義・人間主義として古くは仏教や儒教の伝統を踏まえながら,一方においては非政治的・非経済的,ことに非社会変革的である。また天皇制的な家産政治の伝統も日本の社会や産業機構のなかに残されたままである。それにもかかわらず,箱根会議の結論のように現象的には,日本は世界における高度近代国家として最高峰に位置することは歴史上の事実である。箱根会議のころに桑原武夫らとともに明治維新はブルジョワ革命であるとして,講座派の史観に反対した学者に梅棹忠夫がある。梅棹の著書『文明の生態史観―東南アジアの旅から―文明の生態史観・つづき』は,考現学的・文化人類学的方法論に立脚するものであるから,箱根会議の論調と同様に没価値的であると同時に,世界の各地域の特性を論じたものである。梅棹説では,ユーラシア大陸を第1地域と第2地域に分け,前者には西ヨーロッパと日本が,後者には中国世界・インド世界・ロシア世界・地中海イスラーム世界が割り当てられている。第2地域は暴力と破壊の源泉であり,遊牧民の居住する大乾燥地帯である。第1地域は第2地域の暴力から遠く離れた中緯度温帯の温室である。日本が西欧文明を短日月に消化し,戦後において世界の経済大国となったのは,このような環境によって決定されたものである。梅棹説はいまだに一つの仮説ではあるが,東洋・西洋の文明を永年にわたって量的合理的に日本化した点において西欧合理主義と同格であろう。その反面,天皇制に象徴される家産的・神話的・原始宗教的な価値観を一つの体系にまで永遠化した日本の伝統は,錯誤と反省の繰り返しのもとに現存する。