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●日本人類学会 にほんじんるいがっかい

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 日本人類学会は,1884年(明治17),当時まだ学生であった坪井正五郎・白井光太郎・佐藤勇太郎・福家梅太郎の4人によって創立された。当初より日本人類学会と名乗ったのではなく,さまざまな名をへて東京人類学会と称し,のちに日本人類学会と改名した。

 設立当時の日本人類学の研究項目は以下のように,〈人類の解剖・生理・発育・遺伝・変遷,人類と近似動物との比較,人類と絶種動物との関係・人類と称すべきものの顕われし時と地,人類住居の変遷,貝塚・土器・石器・青銅器・穴居・横穴・塚穴・原始墳墓・文字の歴史・言語の血統・国語の性質,方言・俚歌童謡,家族組織・部落組織,原始学術・宗教・工芸,運輸法,漁撈・商業・農業,衣食住沿革,装飾・風俗習慣・器具沿革・人類の区別・移住・頒布,其の他是等に類する事件〉とあり,広義の人類学と解しうる。

戦前の研究史をみると,国内の石器時代に関する諸問題,古墳横穴その他の遺跡に関する研究,日本民族やアイヌの研究に加えて,植民地の拡大につれて,台湾・樺太・南洋の方面においても研究が行われ,日本の人類学においても植民地主義との密接な関連という人類学の特徴が示されている。

 初期においてみられた人類学の広義の性格も,ほかに類似分野の雑誌が発刊されるにつれ,骨格計測などに関する論文が多数を占めるようになり,狭義の人類学(自然人類学形質人類学)的性格への移行がなされることとなった。

 各国の人類学会組織をみると,1800年,パリに人間観察者協会が設立され,主として遠隔地へ行く旅行者・探険家に手引を与えて,自然史的研究を促進することを目的としたが,1838年にはロンドンに原住民保護協会が作られ,とくに黒人奴隷問題をあつかった。これに刺激されてフランスでも黒人解放のための会を作ろうという動きがおこったが,当時のフランスの情勢では実現不可能であったため,政治的な運動の代わりに科学者兼生物学者のエドワールらが1839年につくったのがパリ民族学会であった。これに強く影響を受けて,1844年にはロンドン民族学会が生まれ,前後してニューヨークにもアメリカ民族学会が誕生した。しかし,これらの学会はいずれも奴隷問題をあつかうことを目的としていたために,奴隷制廃止とともに衰退した。これに代わって身体の特性を研究する人類学のほうがしだいに盛んとなり,1859年にパリ人類学会が発足した。ドイツでは1861年に第1回の研究大会が開催され,1863年にはロンドン人類学会が発足した。このように1860年代には各国に人類学会が生まれたのであるが,民族学対人類学という対立は,その後のヨーロッパ各国で強まることとなった。そしてこれらの国では,民族学・人類学はそれぞれ独立に研究がなされることとなり,民族学はとくにオーストリアで,人類学はドイツでそれぞれ最も発展をとげることになった。しかしイギリスでは,ライバル同士のロンドン民族学会と人類学会が合併して大英帝国人類学研究所がつくられてから総合化への方向が進められ,とくにアメリカでは20世紀になってこの傾向が著しく強められた。アメリカでは自国の内部にアメリカ=インディアンが多数居住していたため,インディアンの全体的な研究を行うことから各部門の総合化が必然的に進められることとなった。

 日本における人類学と民族学の関係は,第二次世界大戦前に導入された考えがドイツ・オーストリア式であり,戦後はアメリカ式の学問の名称が普及してドイツ・オーストリア式の用語と併存する形になり,ときに混乱を生んでいる。日本人類学会が自然人類学の学会であり,日本民族学会が文化人類学,社会人類学の学会である。

〔参考文献〕松村瞭「東京人類学会50年史」「人類学雑誌」第49巻

坪井正五郎「東京人類学会略史」「人類学雑誌」第1巻

長谷部言人撰『自然人類学概論』1927

吉田禎吾・寺田和夫『人類学入門』東京大学出版会