●日本書紀 にほんしょき
アジア 日本 AD720 奈良時代
720年(元正天皇の養老4年)撰上。30巻。別に系図1巻があったが失われた。撰者は舎人親王ほか。『古事記』序文の撰者太安麻呂も参画したという(『弘仁私記』序)。シナの正史編修にならった国史で,漢文,紀伝・編年の混淆体。書名ははじめ『日本紀』といった。『日本書』で下に“紀”を細書し,のちこれが合して『日本書紀』という書名になったとの説もある。巻一・二を神代上・下として天地開闢以下の神話。巻三〜巻卅まで第一代神武から第40代持統天皇までの治世の記録・記文,なかに巻九を,とくに天皇でない神功皇后の紀にあてる。【編修の沿革】5〜6世紀ごろのわが国家成立の歴史的自覚から朝廷で帝紀・旧辞が著され,時を経た。この間推古朝に天皇記・国記などが撰せられたというが現存せず,これについての書紀の記述のほかに証拠はない。681年(天武天皇10),天皇の詔により川嶋皇子らが〈帝紀及び上古の諸事を記定した〉と書紀にみえ,これを書紀編修の開始とみる説が古くからあるがこれまた証拠はない。これは『古事記』序文の「天武天皇の詔」との比考から『古事記』撰述開始の儀式とみるのが妥当であろう。691年(持統天皇5)の大三輪氏ら18氏にその祖らの墓記上進を命じたという記事も直接書紀編纂のためのものではない。『古事記』が上進(第2次撰進)されて2年後にあたる714年(和銅7)に従六位上紀清人ら二人に命じて国史を撰ばせたとあるが,国史とは当時の用法で朝廷の日々の記録のこと,また正史撰修の開始としては両人の位階が低すぎる。かくて書紀撰修の沿革は正史にこれをたどるべき記事がないので,直接書紀本文の分析によりこれを解明すべきであるが,現段階ではまだこれを明確にするまでにはいたっていない。紀に先立つ『古事記』が天武天皇の詔による勅撰の正史たることは,その序・内容の高度の理念・厳格な構成からみて確実であるから,同じく国家の成立について,性格の著しく異なる正史を,同じ朝廷が同じ時期に,公式に企画・発足するはずはない。『古事記』の第2次撰進たる和銅5年ののち霊亀末ごろ(713〜716)にかけて,新しい機運の下で発議され,舎人親王がその総裁に任ぜられたものとみたい。通説の観点から完成まで数年は短いようであるが,後世,書紀の3倍以上の量の『三代実録』が9年で撰進されたことを思えば,決して短くはない。もちろん書紀が史料として依拠したものに古い史料のあるのは当然であるし,また,前半部,巻十五「仁賢紀」までの部分に『古事記』を粉本としたらしいところも多くみうけるが,その潤色・構作が大宝令文によるらしいものや,703年に唐の義浄によって漢訳され,やかでわが国に舶載された『金光明経』によるものなども知られる。
【日本書紀の体裁・内容とその性格】巻一・二すなわち神代上・下は,古事記神世巻とほぼ同じく,天地開闢,伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冊(いざなみ)両尊の国,神生みで始まるが,オホヒルメムチ※注1※(天照大神)・素箋嗚(すさのをの)尊の誕生がつづき,日神の天石窟幽居・素戔嗚尊の大蛇退治・大己貴(おほなむちの)神=大国主神の国土献上を経て日向三代で終わる。記と異なるのは各段に「一書」と称する別伝を種々掲げていることと,とくに主文について,黄泉国(よみのくに)と根之(堅洲)国(ねのかたすくに)すなわち地下=死者の世界と地中の記述の欠如である。前者は一見“古伝承”の尊重による伝承のごとくであるが,実は概してオリジナリティのない,また『古事記』著作後の不できな模倣・改作のようなものが多い。後者は儒家的現世主義合理主義の現れで,記の神話から,地下と地中の話を捨象したものである。
【巻三神武天皇紀以下について】『古事記』の場合は,各巻に A 天皇前項(○○天皇坐××宮治天下(在位年数を記す巻―顕宗巻以後―もある)也),B 后妃子女項(挙例略す=「系譜」),C 立太子項(故□□命治天下也),D 皇族子孫 D1および氏族始祖 D2項(挙例略す=「系譜」),A1天皇後項(天皇の年齢―終末部は在位年数と交代する−天皇御年△△歳御陵在「地名」)と,ほかに C’ 神・半神(邇藝速日命(にぎはやひのみこと)・大物主神・天日矛(あめのひぼこ))の系譜があり,記載全体は記事(「記事」と「系譜」)と物語(「記録」と「物語」)とで成り立っている。これに対し書紀歴代天皇紀の体裁・形式は記事に「系譜」と「記事」,訳文に「記録」と「記文」がある。このうちの記事は表のようになる。
この体裁はほぼ『古事記』のそれを踏襲し,これを拡大・細分化したものである。このうち17代(以下「代」字略)履中,21雄略,22清寧紀,さらに越えて25武烈紀以後に E 任臣連大臣項が登場するが,なおその後にこれを欠く巻もある。A:(ハ)殯庭項は天皇崩後に殯宮の建てられたことを示す事項であるが,これは29紀以後に現れる。「系譜」の特例たる神・半神のそれは『古事記』と同じ神・半神,すなわち饒速日(にぎはやひの)命・大物主神・天日槍(あめのひぼこ)で記が粉本となることを示す。上の記事を除く「記録」「記文」の内容には,天武・持統朝の官府の記録・個人の日記類はもちろん,寺院の縁起・百済関係の史書(百済からの帰化人らの秦上した『百済記』『百済新撰』『百済本記』)そのほかを用い,そのでき上った総量は『古事記』の記述量の数倍に達する。しかし神代に関しては記よりはるかに簡単で,記述量はその1/3,一書群を加えても2/3に過ぎない。これは記の神話性・非現実性に対して,上記のような儒家的配慮による,その忌避・排除を示すもの,また史書らしき体裁をより重んじたことを示す。記の和文よみに対する漢文体も民族主義退潮の時代性を語る。しかし,その潤色には朝鮮の史書のほか,類書・文例集たる『芸文類聚』や『文選』が用いられ,また上記の仏教経典などの借用もあって,『古事記』に物語のある顕宗・仁賢巻に対応する巻十五あたりまではもちろん以後巻末に近いところにまで虚構の記事や文飾が及んでいる,これらのなかには『日本書紀』編者の責には必ずしも帰せられないものもあるが,いずれにせよ,その記述内容が史実か否かを認定するには,一々の記述について厳密な批判が必要である。次に『古事記』が天皇の国土統治と天皇神聖の伝統を記載の主柱とするのに対し,『日本書紀』ももちろんその点では同様であるが,しかしその大義名分論は『古事記』ほど厳格ではない。また国内の一般的な政治・制度の沿革を詳述し,別に百済・新羅ほかの朝鮮半島諸国や隋・唐・粛愼・耽羅などとの使節の往来,新しく伝来したシナ固有文化や仏教文化に関する記事も多い。
【成立後の歴史と写本・研究史】『日本書紀』は撰進ののち,『古事記』を凌いで,わが国史の古典となり,その後時代を逐って編纂された『続日本紀』以下五つの勅撰国史をあわせて,六国史と呼ぶ正史の筆頭とされた。この書による国史の勉学のための講読(『日本紀講書』)は,奈良時代から平安時代にかけて数回行われた。撰進の翌年に当たる721年(養老5)のそれは別としても812,843,878,904,936,965年のそれは,ほぼ30年間隔で真摯に行われたことを示している。講書のさいの講義や質疑応答のメモが『日本紀私記』で,これは古典に関する最初の本文注釈的研究である。ついで鎌倉時代に卜部兼方によって『釈日本紀』28巻が著される。この書の原文に即した厳密な解釈と,引用された『日本紀私記』『風土記』その他の逸文は,この書の評価を高くしている。室町期にも『日本書紀口訣』や『日本書紀纂疏』などがあるが,牽強附会の説が混じり,価値が低い。研究が本格化するのは江戸中期以後に属し,谷川士清の『日本書紀通証』・河村秀根の『書紀集解(しょきしっかい)』が優れている。書紀の出典(シナ古典の文を借りた叙述・潤色)研究はこれらによって始まった。明治時代には飯田武郷の『日本書紀通釈』が出て,諸注釈が集大成された。大正期に入り,文化史的な神話論も盛んとなるが,別に津田左右吉の『神代史の新しい研究』(1913)によって,その虚構性(非史実性)の解明に新局面が開かれた。昭和期に入って津田の研究は『日本古典の研究』上・下となった。別に用字法から書紀本文の分担執筆論が数氏によって展開されているが,そのほか小島憲之の『書紀の述作』(『日本上代文学と中国文学』所収)は書紀の文章が古典の原典でなく類書(上掲)を利用している場合の多いことを一つ一つについて指摘した。
【写本・刊本】残巻・零本の中には平安初・中期の書写らしきものもあるが,院政期以後の北野神社所蔵兼永本・吉田家兼方自筆本・内閣文庫所蔵伊勢本などが善本として知られる。刊本は慶長勅板・寛文九年板本などがある。新訂増補国史大系(吉川弘文館刊)・日本古典文学大系(岩波書店刊)に収める。索引に中村啓信編『日本書紀総索引,漢字語彙編『六国史索引』(吉川弘文館)がある。
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