●日本自由党 にほんじゆうとう
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戦後日本の政党名。[1]1945年(昭和20)11月9日,鳩山一郎を総裁として立憲政友会の流れを継承して結成された保守政党名。綱領によると〈自主的にポツダム宣言を実践し〉〈国体を護持し〉〈自由な経済活動を促進する〉ことを目的として“国民経済の充実”を求めて立党した。1946年(昭和21)4月10日,衆議院の戦後最初の選挙で勝利を得たが,党首鳩山一郎が公職追放となったので,外相吉田茂が後任総裁となり,日本進歩党と連立内閣をつくって第1次吉田内閣を組閣。そのあと二・一スト後の1947年(昭和22)4月25日の総選挙では野党(第2党)となった。[2]1948年(昭和23)3月15日民主党脱党派および民主クラブと一緒になり,民主自由党を結成した。[3]吉田茂の勢力を倒すため保守勢力の再編を意図した小党名。1953年(昭和28)12月9日日本自由党を脱党した。鳩山らの大部分は復党したが,三木武吉・河野一郎ら強硬派は8人で政党をつくった。彼らのほうが影響力がつよく1954年(昭和29)11月日本民主党をつくる。【日本自由党の成立】当初1945年(昭和20)創立の綱領は〈[1]自主的にポツダム宣言を実践し,軍国主義要素を根絶し,世界の通義に則りて新日本の建設を期す。[2]国体を護持し,民主的責任政治体制を確立し,学問・芸術・教育・信教を自由にして,思想・言論・行動の腸遠を期す。[3]財政を強固にし,自由なる経済活動を促進し,農工商各産業を再建して国民経済の充実を期す。[4]政治道徳・社会道義を昂揚し,国民生活の明朗を期す。[5]人権を尊重し,婦人の地位を向上し,盛に社会政策を行い,生活の安定幸福を期す〉とある。参加したのは鳩山を中心に安藤正純・植原悦二郎・芦田均・矢野庄太郎・河野一郎・松野鶴平・星島二郎・牧野良三・樽橋渡であり,斎藤俊夫・一宮房治郎は拒否された。そのほか島中雄作・石橋湛山・石井光次郎・菊地寛・美濃部達吉・桑木厳翼・平塚常次郎も参加した。鳩山が総裁となり,河野一郎が幹事長として「救国政党」と自称し,共産主義の排撃を基本にすえている。鳩山は国体護持を強調し,責任政治内閣制の確立を考えた。婦人参政権を含む選挙権・被選挙権の拡張,人権の尊重と自由の保護,官僚主義の打破,労働者の法的地位の確認などをかかげている。また鳩山は戦争責任問題を提起し,東条独裁に加担したかどうかを問うている。これがのち鳩山追放のもとになったのは不可解なことの運びといえよう。日本自由党はブルジョア政党である政治資金調達は河野一郎が行い,黒幕辻嘉六や児玉誉士夫などともつながっている。また院外団という外郭団体をもち,階級闘争へ介入する明統会を組織している。
【第二次日本自由党の成立】鳩山一郎が復党したあと,その周辺にいた三木武吉・河野一郎らは,自分の党をもちこたえる自信がなく党財政の確立が困難と判断したのに対し,独自の道を辿った人々もいた。松田竹千代・山村新治郎・池田正之輔・中村梅吉・松永東・安藤覚の8人であった。彼らは12月9日に日本自由党を結成した。そして分党以来の伝統を守り,保守政党の第3党を守ろうとつとめた。こうした一連の活動は,社会党の分裂とあいまって政局を複雑なものとしていたが,それにもかかわらず,造船疑獄もあって自由党が衝撃を受けると,内部的団結をつよめている。そして鳩山復帰を機会に憲法調査会と外交調査会の設置がされるにいたり,危機突破のため保守連合への動きが急速につよまっている。しかし吉田茂の指導力はしだいに低下していった。世界ではしだいに集団安全保障機構の確立の動きがすすんでいる。こうしたなかで吉田茂が外遊する機会をつかんで,反吉田を標傍する日本民主党の結成が企てられ,吉田内閣は崩壊し,鳩山内閣が成立した。それに大きな力を発揮したのは8人の侍たちの日本自由党の力量であった。