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●日本資本主義論争 にほんしほんしゅぎろんそう

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 1927年ころから主として知識人や政党のあいだで論議された明治維新以降の革命論を内在した日本資本主義の評価をめぐる論争。「講座派」「労農派」間で対立し,1936年12月,1937年2月の人民戦線事件によって当局により終結させられたが,戦後にも大きな影響を与えた。

【戦略論争の発生】1927年は論争発端の年となった。すなわち,コミンテルン(国際共産党)執行委員会において日本共産党も加わって,新しい日本問題に関する決議が行われた。それは「27年テーゼ(綱領)」と呼ばれており,日本資本主義の現段階の特質・国家権力の階級的本質・革命の見通しと戦略などを規定したものであった。それは,[1]日本資本主義は発展上向線上にある,[2]その国家権力は資本家と地主のブロックの手中にある,[3]当面の革命はブルジョア民主主義革命であるとした。この年12月,雑誌「労農」が創刊されたが,同誌に執筆した猪俣津南雄が資料を送付していたため,27年テーゼに影響を与えたといわれる。プロレタリア(1段階)革命論に立ち猪俣は,当時の日本の封建的絶対主義は枢密院・貴族院などの制度やイデオロギーで本来的な階級的・物質的基礎をもつものではない。封建的土地制度を撤廃した明治政府は地主の政府ではなかったし,今日では資本家階級が生産を支配し,地主もブルジョア化しているから,絶対主義の打倒を目標とするのは安易なロシア革命からの類推であるとした。かくて,雑誌「マルクス主義」で絶対君主論や2段階革命論(ブルジョア革命→プロレタリア革命)にたつ福本和夫らは否定される結果となった。

【封建論争への展開】1927年,野呂栄太郎は「日本資本主義発達史」を『社会問題講座』に載せ明治維新をブルジョア革命と考えたが服部之総(しそう)は1928年「明治維新史」を『マルクス主義講座』に載せ,下からのブルジョア革命を指向した自由民権運動の消滅の上の外見的立憲主義が1889年の憲法発布であり,未完の革命であったとした。同講座に1928〜29年,発表した野呂は,当面の革命を社会主義革命とした猪俣を批判し,地主は副次的な搾取(さくしゅ)階級ではなく直接的なそれで半封建的専制国家の物質的基礎とし,1931年のコミンテルンの影響下で日本共産党のテーゼに,革命同盟軍としての農業プロレタリアートと貧農の存在を位置づけようと苦悩した。

32年テーゼと「講座」】1931年満州事変後,コミンテルンは27年とは逆に「32年テーゼ」で,明治維新によって成立した国家権力は絶対君主制であり,独占段階に達した今日でも変化なく,[1]この天皇制国家機構こそ日本の支配体制の第一の構成要素であり,[2]農村における地主の半封建的支配が第二の要素であり,[3]強奪的独占資本主義は第三に位置づけられると180度転換,1932年5月から1933年9月までに完結する『日本資本主義発達史講座』に大きく影響した。野呂は地下活動のため『講座』を編集はしたが執筆せず羽仁五郎服部之総山田盛太郎平野義太郎などがこれに執筆し「講座派」と呼ばれることになる。とくに山田は1934年に投稿論文を『日本資本主義分析』にまとめた。『分析』は半封建的土地所有と零細耕作が日本資本主義を支える根で,この土台の上に軍事工業と石炭・鉄鋼業を軸とした基幹産業が立脚し,同様に農村からの低賃金労働の供給による衣料生産部門が展開するとした。山田が分析した日本資本主義の「型制」について「労農派」櫛田民蔵は小作料の高率性を小作人間の競争から説き,山田を批判したが病死,向坂逸郎(さきさかいつろう)は『分析』を聖書とする「聖徒の一団」は明治30〜40年ごろに軍事的半農奴制的な型として確立して以後,その型を変えていないと批判した『日本資本主義の諸問題』(1937)を刊行。以後,マニュファクチュアをめぐって服部と土屋喬雄のあいだに,地代をめぐる平野の労農派批判があり,論争は拡大された。

〔参考文献〕小山弘健編『日本資本主義論争史』上・下,1953,青木書店

長岡新吉『日本資本主義論争の群像』1984,ミネルヴァ書房