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●日本降伏 にほんこうふく

アジア 日本 AD1945 昭和

 1945年(昭和20)8月,太平洋戦争の敗北を認めた日本政府が,無条件降伏を求める「ポツダム宣言」を受諾し,連合国に対し降伏したこと。

【わが国の敗戦】1941年(昭和16)12月真珠湾奇襲を皮切りに,緒戦を展開した日本軍は,3年半後には,南西諸島も失い,その支配領域はほとんど本土に限られ,開戦時の1割に縮小し,また島国日本を支える船舶は激減した。加えて日本の主要港湾は機雷で封鎖され,海上交通は全面的に麻痺した。ここまで追い詰められた日本が,たとえ本土に陸海軍355万人,義勇隊2,800万人,特攻機1万機,特攻艇3,300隻を擁したといえ,物量・戦力に勝る,完全装備の敵の陸海空の大軍に対しては,国民をあげての玉砕戦にまきこむ以外にないことが予見された。

終戦工作】重光外相は,中立条約を結んでいるソヴィエトを,終戦工作の上からとくに重視して種々と努力したが,成果はあがらず,同条約の延長も拒否された。東郷茂徳外相も同じ見地から広田元首相にマリク駐日ソヴィエト大使との会談を依頼し,さらに近衛特使のモスクワ派遣を申し入れたが前者は中絶し,後者は実現しなかった。また小磯首相の対蒋和平工作(繆斌工作)も失敗に終わった。この間にあって1944年7月,米内海相のもとに海軍次官となった井上成美の特命で終戦工作にあたった高木海軍少将は,連合国の意図する対日占領政策,特に対日降伏条件の研究で成果をあげた。

ポツダム宣言の受諾】1945年7月17日から開かれた連合国巨頭によるポツダム会議は,同26日,アメリカのトルーマン大統領が携えてきた対日最後通告文を,イギリスおよび中国を加えた三国宣言として発表した。同宣言は,日本に戦争終結の機会を与えると前言し,降伏の条件として,日本軍国主義の絶滅されるまで占領されること,領土の削減,軍隊の完全武装解除,戦争犯罪人の処罰などをあげ,最後に〈日本政府が直ちに全日本軍隊の無条件降伏を宣言し〉かつその行動に対し十分な保障を提供することを日本政府に要求し,そして〈右以外に日本国に残された道は,迅速にして完全な破壊である〉と結ぶ。

日本政府が同宣言の内容を知ったのは27日であった。東郷外相は実質上〈有条件講和の申し入れ〉であり最も重要視して対策に慎重を期し,諾否を決めず,事態の推移を見守ることを主張した。鈴木首相もこれを支持したが,軍部からの申し入れを容れ,28日〈ポツダム宣言黙殺〉と談話を発表した。連合国はこれを拒否ととり,8月6日広島,同9日長崎への原爆投下となり,8日のソヴィエトの対日参戦となった。9日夜の御前会議で〈宣言は天皇の国法上の地位を変更する要求を含まないとの諒解のもとに受諾する〉ことが親裁され,10日連合国へ通告された。しかし敵機の空襲はかえって激化した。14日再度の御前会議が開かれ,ポツダム宣言の全面的受諾の聖断が下された。阿南陸相・杉山参謀総長・豊田軍令部総長は,天皇制に対する宣言の意図を再照会するよう懇請したが,容れられなかった。午後11時「終戦の詔書」が発布され,同時にこのこと,ならびに降伏条件の実施態勢のできている旨の米・英・中・ソあて通告電報が発せられた。

15日正午,天皇は「終戦の詔書」を自らラジオ放送した。

【降伏および降伏文書の調印】16日午後4時大本営は,全軍に対し,即時戦闘行動の停止を命じた。20日参謀次長河辺中将ら全権一行はマニラにおいて連合国総司令部から「降伏文書一般命令第1号」を受領して21日帰国した。これより先,終戦を拒否する一部の陸軍青年将校の暴発や,海軍士官の行動があったが大事にならなかった。9月2日,アメリカ戦艦ミズーリ号甲板上において「降伏文書」の調印式が行われ,日本全権重光葵梅津美治郎が署名した。陸海軍は同日「降伏文書」および「一般命令第1号」にもとづき,それぞれ全軍に対し降伏命令を発した。

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