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●日本考古学会 にほんこうこがっかい

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 日本の考古学に関する学会としては最も古く,その歴史を語ることは,近代日本における考古学の進歩の歴史でもある。

【誕生】江戸時代後期においても遺物・遺跡への関心は強く,すでにいくつかの考証がなされているが,近代的思考にもとづく考古学研究は,明治を待ってからである。その引き金となったのは,1877年(明治10)に来日したアメリカの動物学者の E.S.モースである。モースははじめ東京大学を中心にダーウィンの進化論を説いていたが,汽車の窓から大森貝塚(東京都大田区山王一丁目)を発見し,のち発掘調査した。モースの学徒たちは,貝塚発掘により,日本に弥生時代があることを確認し,その時代が古墳時代と縄文時代の中間にあることを知ったが,その彼らを中心にして,1884年に東京人類学会がつくられた。生物学・考古学・土俗学を使って人類を研究せんとする会で,東大理学部の坪井正五郎らが推進者であり,「人類学雑誌」を刊行した。この雑誌は,その誕生に上記のようないきさつもあって,主として石器時代の研究の発表機関であった。「人類学雑誌」に対して,東京国立博物館考古課を母体にした考古学会は,「考古学会雑誌」を刊行し,原史と歴史時代の研究を掲載した。考古学会はやがて1941年(昭和16)に日本考古学会と名称を変えるが,1895年に創立され,翌1896年に雑誌を刊行した。中心になったのは,当時東京師範の教員であった三宅米吉(1860〜1929,万延1〜昭和4)である。三宅米吉慶応義塾在学中に文明開化期の影響を受け,福沢諭吉田口卯吉らの文明史の系列に属し,歴史における法則性と因果性を重んじた。考古学者としては,文献と遺物の融合をはかることを大切にした。三宅米吉らは考古学会創立に際して,さきの東京人類学会を意識して,その創立の趣意書に,〈本会は同志相集まり本邦考古学の研究に従事するものにして,其の目的は本邦歴世の風俗・利度・文物・技能を明らかにするにあり〉と述べている。

【発展】考古学会の機関誌「日本考古学会雑誌」は,1896年の創刊後4年間で28冊を刊行し,1900年の3篇4号で中断する。このころは,三宅米吉・福地復一らが考古学会幹事として活躍し,会務を下村三四吉が担当した。「日本考古学会雑誌」は,1900年より「考古」という表題のもとで,1〜7号を刊行した。このあと,考古学会の会長を三宅米吉が務め,雑誌名も「考古界」と改められた。1904年には,高橋健自が幹事として参加するにおよび,考古学会の活動は円滑さをまし,日本の考古学会の一方の中心となる基礎を形づくった。「考古界」は,1910年までつづき,96冊を出し,8篇12号でもって終刊,のち半年間,会は機関誌をもたないが,同年9月25日に,「考古学雑誌」を創刊し明治末から大正の初めにかけての古墳研究熱の高まりのなかで,安定した出発となった。1912年(大正1)から翌春にかけて,東大・京大・宮内省の学者たちは,宮崎県西都原(さいとばる)の古墳群を発掘調査して新事実を見つけだし,近畿地方の古墳からも専門学者を驚かすにたる業績があがっていた。歴史学者の喜田貞吉(1871〜1939,明治4〜昭和14)が『上古の陵墓』で,日本の古墳の変遷を論じたのもこのころである。大正年間はまた,銅剣・銅矛・銅鐸などの発見がつづき,考古学研究は高まり,考古学会幹事の高橋健自が『銅鐸銅剣の研究』を上梓したのは1925年である。昭和に入ると弥生時代の研究はいちだんと進むが,会は,1929年に高橋・三宅の両実力者を同時に失った。その後の考古学会の人事は,会長に坪井九馬三・後藤守一らが会務をとり,1936年には,会長に黒板勝美・原田淑人らが会務にたずさわった。前述のように1941年,日本考古学会と現在名に変わるが,戦時中は法規が厳しくなり,考古学全体は振わなかった。「考古学雑誌」は月刊で1944年までつづき,戦後は不定期化した。1947年原田淑人が会長になった。