50音順    検 索

●日本語 にほんご

アジア 日本 AD 

 ニッポンゴともいう。日本列島一円に,単一民族といわれる日本民族が用いる言語。大和民族と共に列島に根づき,一部にアイヌ語があり,方言訛音の著しいものを包含しながらも,有史の伝統を守ってきた結果,日本国の唯一の公用語となっている。標準語(共通語)の普及は明治以来の教育政策でかなり成功したと言える。日本語の分布地域は,台湾・樺太・朝鮮を版図に入れていたあいだに,外地と呼ばれたそれらの地方へ広がっていたけれども,徐々に忘れられていき,ブラジルやハワイへ移住した邦人のあいだでも3世,4世となってから漸次通用される度合いが低下してきた。けれども世界の諸言語に比べて使用者数の上で少ない方ではない。約1億500万という数は,中国語・英語・ロシア語・スペイン語・ヒンディー語に次ぎ,ドイツ語とともに世界第6位を占める。国語でなく,日本語の呼称がふさわしい時代が到来したことを思いながら大観する必要がある。

【世界の中の日本語】単一民族の単一言語という事実は,外国語に対する日本語の孤立感を醸成し,とくに近代ヨーロッパ語に対する劣等感を生み出した。この孤立感には由来があることを学問的に,つまり系統論や比較言語学の援用によって解明せねばならぬ。言語のバックボーンというべき文法に中心を置いてみれば,膠着語といわれる語族,すなわちアジアの北から西へ,朝鮮・満州・蒙古・トルコの諸言語と近親関係にあることがわかる。朝鮮とのあいだに地理的な隔たりがあって語彙の上での関係など密接とは言えないことから見ても,民族語というものは特殊性が濃厚となるものだと理解できよう。まして遠く離れた国々の言語とのあいだに懸絶が見られ,孤立の印象を強く自他において受けることが多い。同じ人間の考え出した人間生活からの精神的産物であることや,実際に外国語として学習した結果習熟の成果が期待できることを思えば,一言語が世界の諸言語の中で,隔絶の孤立感に陥ることはないであろう。系統論に関する諸説があって,帰趨するところなしという現状であるが,主要の説について整理してみる。北方説――アルタイ語またはウラル=アルタイ語と同系と見る説。第1に語順が似ていて,主部が述部に先行することや,目的部が述部に,修飾部が被修飾部に先行すること。第2に,膠着語(付着語)の特長として,後へ後へと付着していく性格で,すなわち,後置詞(助動詞・助詞・接尾語など)の働きで語の格・相・態・時制などを表すこと。第3に,文の成立に主部を必ずしも必要としないで,主語が述語の中に含まれているという説明が成り立つこと。第4に,性・数・冠詞・関係代名詞がないこと。そして第5に,音韻上の特質として,母音調和があること,および語頭に r や二つ以上の子音がないことである。以上の特質は文法上のことが主で,したがって同系説へつながりやすいのが北方説なのであるが,それも決定的な論拠を呈示するまでにはいたっていない。絡み合っている要素もあって,未解決なのである。南方説――これにチベット=ビルマ語族と同系だとする学説とオーストロネシア語族説との2説がある。前者は語彙・語順などが一致したり,代名詞に語形の類似が認められるが音韻対応に見るべきものが少ないことから,疑問視する人が多い。後者は,身体に関する名称や基礎語彙に語形の類似がみいだされるけれども,同系とするには事例が少ない。このほかに,マレー=ポリネシア語族説が開音節の類似点をもって,また,タミール語との同系説が基礎語彙の共通例をもって,熱心な系統論を展開しているかにみえるがいずれも疑問点が少なくない。黒潮文化の流れという点からみて,南方説は軽視できないのであるが,事柄の性質上,一方的に決めることは許されないであろう。今後の調査研究が待たれるゆえんである。民族学・民俗学・神話学その他おおよそ人間生活全体にわたる学問の積み重なったところでの学際的究明が望まれる。常識的に,北方からの文法と南方からの音声とが2大源流であることを認めるしかない。

【文字】漢字と仮名については別に項目が立てられている。ここでは,日本語の展開の上で考察を落としてはなるまいと思われることについて記述しておきたい。大陸文化の渡来のなかで,漢学が伝わってきて,日本語の記載ということが行われるようになったのは,3世紀以後のことだとされている。中国の『魏志』倭人伝(297)に「邪馬台」「卑弥呼」などの固有名詞が出てくるが,これはそのころに九州あたりですでに漢字による日本語表記が行われていたことの証拠となる。金石文仏足石など,その他出土品に発見できる固有名詞の研究が進めば,このことはさらに明らかな事実として浮かび上がってくるに違いない。万葉仮名・片仮名・平仮名がそこに胚胎し,日本語は記録されることが可能となった。消え去るしかない音調(音声・アクセント・イントネーションなど)が記録されるとそれ自体の発展につながる。文字の意味と字形が日本語を豊かにした上で,音調という(文字文化は内容だけとみて)記載されにくいものを意識させてくれた功績は大きい。音調(例えば五七調・七五調などの音連続)というリズム・調子は,独特の洗練をみずからの課題として,時代の流れに沿って展開していって今日にいたったのである。日本語のリズムというものが,誇るに足る歴史文化の一つであるとするならば,日本語に自信を与え,その独自のものを伸長させてくるのに側面から手を貸してくれた漢字文化というものに対し,これを多とし,その功績をさらに大きく認める上でやぶさかであってはなるまい。日本語は,どこの言語でも事情は同様であるけれど,本来音声言語であった。神代文字とか日文とか,後世取り沙汰されたものもあるが,これは問題にならぬとして,音声言語でありつづけたはずの日本語の様相を想像してみることも必要であろう。そうしてこそ,われわれは,文字文化の恩恵ということへ深く想到することができるのではないか。日本語独特のリズム,そこから響きとなり音曲となって人々の生活文化を豊かになしえた幸せを思う。

【音韻】上代特殊仮名遣という現象があって,学者のあいだでの精密な調査がそれを証明している。エキケコソトノヒヘミメヨロの13音には甲類乙類と名づける2種の音があったというのである。ア行のエとヤ行のエとが現代のわれわれにも使い分けられるようなことであったろう。文字の研究がそこまで進んだということであるが,その上に平安朝のアクセントのことを示す符号の研究も進んでいるので,発音という記録しにくい面の一部が解明されたことは大きい。古典音曲といわれる部門の研究も進歩がめざましくて,仏教の声明など,太平記読みや平曲(平家琵琶ともいう盲僧の語りもの)そのほか舞楽の流れ,能楽の始まったころの歌謡の音調面までがかなりな程度までわかったと言える。芸能方面のほかに,各地の方言(その中の音声面を訛音といったり方音といったりする)が貴重な生きた資料として残されている。鎌倉室町時代の日常語をローマ字で記録した宣教師たちの労作は,研究者にとって絶大の貢献をしている。日本語の音韻は,その単位として音節があり,それも開音節といわれる子音+母音の形をとる。母音だけで終わるものがあり(アイウエオ),文末に来て無声化することもあり(ンで終わったり,促音で終わる閉音節になったり),時代の移りと外来語の取り入れとが今後ますます音韻構造を変革していくことであろう。音節が等時的に並んで発音されていくのが日本語の特質となっているが,音数律といって音位律・音性律などアクセントや音連続のことに特長のある語族のと違う基本構造を踏まえている。五七調・七五調を基盤とするリズム形式は韻文だけのことでなく,日本語全体を支持していて,等時的拍音形式の言語とされている。アクセントやイントネーションが単調であるのも,その基本形式に由来しているのである。アクセントが高低アクセント(高さアクセント,ピッチアクセント)なので,音節の一つ一つを明瞭に発音しさえすればアクセントを間違えても相手に通じる,という利点もある。

【文法】語の単位が音節であるのに応じて,文の単位が文節である。どちらも発音上の単位であるが,後者は文という,実際に生き働いている言葉を単位において捕えようとすれば,独立している一つの文を措定することになる。その文をさらに細かく分析すると語になるけれども,実際の発音の上で認識される単位ということになれば,語ではなく文節なのである。〈わが輩は 猫である。名前は まだ ない〉という二つの文があるが,分かち書きで示された単位を文節という。一つづきに発音される連続音で,それ以上に分けると不自然な発音となる(「名前 は」のように分けることもできるけれど,それは動物実験における解剖のようなものだといわねばならない。文法学習のためには時に解剖のような分析も必要となるのは,当然であるが)。文法学習において,文章論・文論・語論と三つに分ける分け方をとる場合も,文の観察が大本となる。発音による表現において,独立した文が観察になりやすいからなのである。

【日本語の位相】日本語を使用する立場や環境,まとめていえば条件ということであるが,条件のいかんによって種々様々の言語体系に分かれる。主に語彙上のことであるが,文脈や文法上のことにも関わりがある。第1は,地域社会が違うことからおこる方言の存在。他の言語の場合と同様に,日本語の方言は顕著というべきで,その由来を考えると,地域差のほかに人為的(封建社会の政策として)に操作が加えられたこともあった。現在は教育・交通,その他近代文化の動きの中で方言のマイナス面が緩和されつつあると言えよう。共通語と併用の二重言語生活が行われていて不便がないのみならず,方言のプラス面が見直されつつあることも事実である。第2に身分や階層による違いがある。時代の移りと共に以前ほどではなくなったと言える。第3に職業による相違,これは生活上の仲間意識との関連から生じた。第4に男性と女性との違い。女房詞・婦人語の問題は日本語の特質を考えるときその比重は大きい。

【敬語】位相語として考えられる待遇表現の中で,敬語として尊敬語謙譲語丁寧語の三方面のことが以前から大きな特質となっていた。言語におけるスタイルの問題とも関わりのあることで,言葉づかいの教育という点から,今後ますます人々の関心をかき立てる必要がある問題だと言える。敬語は日本語の美点としてほかの言語に比べ格段に発達してきた,ということは事実であるが,反面,言語表現を窮屈にする上で厄介視されている。わが国においてはコミュニケーションが正しく行われていなかったが,今後はそれでは困るというのが実情であろう。過去の縦社会の上意下達式でなく,横社会において水平に一方から一方へと交流をする世の中となった今,人間同士の意思疎通(コミュニケーションは伝達というよりも通じ合いと見る相互交流の,一方通行でないとする考え方)を第1にせねばならぬとするなら,丁寧語本位にして繁瑣な敬語一般の簡素化へと傾きつつある傾向を肯定せざるをえない。

【外来語】今後の日本語問題の中に外来語対策がこの数年のあいだに大きく持ち上がってきた。片仮名表記の外来語があまりに多いから,これは由々しい問題だというのである。日本語から外来語を取り除くことは出来ない。大和言葉が主で,そこへ大陸伝来の漢語が漢字と共に伝わってきた。世間とか人間とか,ふつうに日常語の中で用いられる用語の中に,上代以来どれほどの外来語が入っているか,計り知れない。時代がくだって,スペイン・ポルトガル・オランダの言語が輸入されることになって,近代国家への仲間入りが可能となる素質が固まった。そこへ19世紀のドイツ語・英語の導入があって文明文化の革新が鮮やかに実現した。外来語が自然に多くなり,それを使いこなすことで,教育も学術も,交通・軍事のことまでも,長足の発展を遂げた。そうした事情を思えば,外来語なくしては日本文化の今日はありえなかった。そのことを充分に承知し理解した上で,外来語対策を考える必要がある。

国語国字問題】昔は漢字尊重の思想があって,学問することは漢字を覚え上手に書くことにほかならなかった。漢字尊重は当然の結果として,送り仮名のことや,学術用語その他の文化語のことと密接につながっていて,時代の進展の中で論議の対象となってきた。明治維新と共に国字問題が出てきたが,先頭を切ったのが「漢字御廃止之議」(前島密)という建白書であった。ローマ字論やかな文字が各方面で盛んとなっていったのは文明開化を国是とする立場に順応するものであっただけに,深刻な大問題となった。政治経済の実社会の中では,文字の問題のごときは小さいと言って取り上げようとしない為政家もあったけれども,世の趨勢として根強く論議されつづけたのである。戦後,漢字制限・表音式仮名遣いが制定されることになったのも,あながち進駐軍の強い指導のせいばかりではなかった。民主教育という大義名分をかちえて,出版界・新聞界が多年の研究に基づく実践に移り,教育界もそれに従うことになった。

【日本語教育】国力伸長と共に国語の進出がみられるのは自然の趨勢である。植民地政策の中で,そのあるべき姿を模索する動きもあったが,大体において自然の流れとして日本語が流出していった。日本語教育ということが唱えられるようになったのは,戦前のことであったけれど,それもわずかながらも理想的なありようを期する向きがあり,かなり力を入れてこの問題を検討した事実も記録されている。日本語普及ではなくして,日本語教育でなくてはならぬ,という考え方は,戦中の占領地域へ眼を向けていた時分のことであったから,偏向した一面もあった。しかしながら,少なくとも文部省内に生まれた日本語教育振興会の趣旨は,今日からみても正鵠を得たものであり,部外からの圧力に抗しながら正しかるべき日本語教育を目指したのである。戦後,日本語教育は脚光を浴びてきた。今こそ,新しい時代に適合した方策を練り,悔いの残ることないよう衆知を集めねばなるまい。それは国外国内の大問題なのである。

【国語政策】国語国字問題と教育問題とを含めた,広域に立つ国語政策を確立させることの必要度が,今日ほど重要であったことは今までになかったと言わねばならぬ。日本語自体が含みもつ問題がある上に,教育上のことがあり,さらに,対外政策として考えねばならぬことへと広がり,したがって国政の中で論じられる必要がおこったと言える。日本語は日本人と共に,日本の近代的文物と共に外国へ流れ出ることも多くなった。西ドイツの工業関係の業者が日本の新聞を迅速に正確に読み取れるようになりたいと熱心に希望を申し出ているという一つの事例を見ても,相当に広く遠く視野を延ばして見る見方が要請される,そうした新時代が来ている。対応するには,まず大きな複眼をもって眺めながら,今までの国語国字問題に対処しなければなるまい。機械と共存するためにも,また,機械に先走ってもらうためにも,近視眼的な見方は許されなくなった。このことを言わねばならぬのも,言語の重要性のゆえなのである。