●日本空襲 にほんくうしゅう
北アメリカ アメリカ合衆国 AD
太平洋戦争下,アメリカ軍による日本本土爆撃のことで,その主力は,当時アメリカ軍の最新超重爆機,B29によって行われたが,おおよその経過は次の通りである。【B25による日本本土初空襲】日本軍が真珠湾へ奇襲攻撃をかけ,太平洋戦争の火ぶたが切って落とされた1941年(昭和16)12月8日から,わずか半年も経過しないうちに,日本本土はアメリカ軍機による初空襲を受けた。すなわち1942年4月18日,太平洋洋上を東進してきた空母から飛来したアメリカ中型爆撃機 B25,16機により,東京・横浜・名古屋・神戸などの6都市が不意討ちにあった。被害は死傷者180人,全半焼家屋289戸だったが,軍部防空部隊の全力応戦にもかかわらず,1機も落とすことができなかった。この初空襲こそ,制空権を敵に奪われた日本の未来を暗示したものといえよう。それから2年半が経過した。このあいだにアメリカ軍は態勢をととのえ,強力な足場を固めた。1944年7月,サイパン島などマリアナ群島が,アメリカ軍の手にわたった。ここに航空基地が設けられ,“超空の要塞”B29の大編隊が日本本土にねらいをつけて待機するようになったのは,同年秋のことである。
【3月10日東京大空襲】1944年11月,サイパン発の B29が,首都東京上空にその巨大な姿を現した。最初爆撃目標は都下武蔵野の中島飛行機工場など,主として軍事目標中心の精密爆撃であったが,やがて非戦闘員を対象にした無差別爆撃へと戦略戦術を変えた。その皮切りともいうべき“炎の夜”が,1945年3月10日未明の東京東部地域への大空襲である。同日未明,東京を襲った B29は約300機,2,000トンからの高性能焼夷弾を満載し,超低空から,人口密集地帯の下町地区を襲った。猛火は激流のようになり,道を走り家屋をつらぬき,いくつもの運河と隅田川をこえて合流,東京東部一帯は巨大な火焔のるつぼと化した。100万人からの人々が住居を焼かれ,約11万人が傷つき,死者はおよそ10万人にも達して,東京はその歴史始まって以来の大修羅場となった。
【3月10日以後の大都市爆撃】東京を焼き払った B29は,一転して機首を西にひるがえし,深夜,超低空,圧倒的な焼夷弾攻撃で,主要都市に襲いかかった。名古屋が東京につづく最初の目標都市となり,3月12日,B29,288機が来襲,死者519人,次いで大阪,3月14日,279機の B29の来襲で死者3,115人,神戸,3月17日,307機の空襲で,死者2,598人……といった具合に,たたみこむような連続波状攻撃となった。これより日本の市街地はつぎつぎと猛火の犠牲となり,5月には東京山の手に2回と横浜がやられ,6月には再度,大阪・神戸が,また静岡・浜松・鹿児島が,7月には仙台・熊本・高松・高知・甲府・和歌山など34都市が,8月に入って八王子・水戸・長岡・富山がやられ,熊谷は敗戦前夜の8月14日夜半に壊滅的な打撃を受けた。アメリカ軍による日本本土無差別爆撃は,実に8月15日正午の敗戦を告げるそのときまで続行されたのであった。
【日本本土爆撃の総被害】アメリカ軍による日本本土爆撃により,日本の200に近い諸都市が焼土と化したが,どれほどの民衆の生命が奪われたか。この点に関する信頼できる資料はとぼしい。1949年4月,経済安定本部が発表した「太平洋戦争による我国の被害総合報告書」では,軍人・軍属など戦闘員を除く銃後人口の人的被害総数のうち死亡者は約30万人だが,原爆による死者は11万と過少にされている。また沖縄県民の死者も除かれている。1970年(昭和45)に結成された東京空襲を記録する会は,さまざまな資料を照合・推定して,日本全国の戦災死亡者を推定60万人と記録した。このうち,東京都民の死者はおよそ11万5,000人である。「米戦略爆撃調査団報告書」によれば,太平洋戦争を通じ,アメリカ軍が日本本土に投下した爆弾・焼夷弾の総重量は16万1,425トンで,その内訳は6,740トン(海軍航空隊),7,109トン(極東空軍),14万7,576(在マリアナ第20空軍の B29)で,その空襲は353回にわたり,延べ5万1,903機に及んだという。