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●日本銀行 にほんぎんこう

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 日本の中央銀行として1882年(明治15)6月の日本銀行条例にもとづいて創立。その年の10月から営業を開始して現在にいたるいわゆる銀行の銀行。1884年5月の兌換銀行券条例によって兌換銀行券が発行(施行布告1884年7月1日)されてのち,不換紙幣発券銀行となる。

【創立目的】日本銀行(日銀)の創立目的は[1]金融を便易にすること,[2]国立銀行諸会社などの資力を拡張すること,[3]金利を低減すること,[4]中央銀行を設立し,国庫事務を取り扱って財政と金融との調整をはかること,[5]外国手形の割り引き−−である。とくに兌換銀行券を発行するという恒久的な目的のため,当面,不換紙幣の整理がなによりも緊急とされた。そこで日銀創立によって,政府紙幣の消却が進められた。1885年6月,政府紙幣の銀貨交換を1886年1月より実施することが決定され,1899年(明治32)末限りでその通用が禁止された。また1883年5月,国立銀行条例が改正され,銀行紙幣消却の方法がたてられ,国立銀行紙幣も1899年12月9日限りで,その通用を禁止された。こうして,日銀創立以来18年間で,正貨のほかに流通するものはすべて兌換銀行券のみとすることができた。

【日銀の産業資金の供与】松方正義大蔵卿は「日本銀行創立旨趣ノ説明」(1882年3月)で,〈日銀は中央銀行であるが,営業の型からいえばいわゆる割引銀行であり,手形割引をもって本務とするもので,ヨーロッパ各国の中央銀行と同じである〉とした。具体的には,為替(かわせ)手形その他商業手形の割り引きを「常務」とすること(条例第11条第1項)が決められ,不動産および銀行または諸会社の株券を抵当として貸金をなすことは禁止された(同上第12条第1項)。一方,国立銀行は株式担保貸付を行っていたため,1890年の恐慌を金融的に促進した形となった。これに対処して,日銀は1890年3月,兌換銀行券発行後最初の制限外発行を行ったり,同年5月,保証発行限度を7,000万円から8,500万円へ引き上げた。同月,さらに禁止されていた「担保品付手形割引制度」で,日本鉄道など有力会社の株券15種に限り,割引を行い,金融を行ったが,1897年6月,その制度を廃止した。廃止の理由は本制度を残すと,普通銀行が株式の保有ないし株式担保の貸し出しを通じて資金の固定化を助長し,政府の指導理念である預金銀行主義,すなわち,商業銀行主義に反するからであるとされる。ところが日銀は種々の形式的違いはあったが,やむをえない便法として,実質的にこの制度を残した。

【日銀の金利低下誘導】前掲の「旨趣」で松方は,日銀が利息を下げることで,民間の銀行会社などもそれに従って利息を低下させるはずであるといっている。資本制生産の発展をはかるためには,金利水準の低下とその平準化が必然的である。ところが国立銀行は日銀の定期貸しの大半を借り入れて,これによってうるおい,普通銀行は日銀から金を借りて比較的高利に貸し付けて「鞘(さや)取」するのが1897年ごろの姿であったといわれる。あとのケースについては,日銀は,この弊風を打破するために1897年6月,普通銀行が日銀に依存することなく,預金銀行として活動するよう指導し,1899年11月には個人への貸付利子と銀行のそれを同率としたので,両者の利子は接近した。

【日銀の国庫金取り扱い】政府は1883年4月,日銀に国庫金取扱方を命じた。同年6月,従来の大蔵省為替方は廃止され,新たに[1]国庫取扱所,[2]現金取扱方,[3]金銭取扱方が設置された。[1]は国庫に納めるべき金の収納と送納を行う機関で日銀があたり,[2]と[3]は各庁経費金の出納を担当し,旧大蔵省為替方が当った。しかし,やがて同一機関が担当することが望ましく,1887午4月,国庫金出納所が設立された。そして,[2]と[3]の事務を引き継ぎ,日銀がこれにあたった。ただし,東京・大阪の官金取り扱いは大蔵省金庫局が直接扱ったが,1889年2月の会計法と12月の金庫規則で国庫出納所と大蔵省金庫局が廃止され,金庫の管理は大蔵省があたるが,事務すべては日銀に委託された。さて,上記の処置は,ただちに旧来の官金取り扱いを行っていた三井銀行や安田銀行に大きな影響を与えた。1882年末の総預金に占める官公預金の比率は国立銀行44.7%,三井銀行44.7%,安田銀行40.8%にのぼっていたからである。三井銀行は日銀開業直後の1882年12月,松方正義あてに,官金取扱期限の延長方を願いでたが,松方に拒否された。また,安田銀行については1887年4月,国庫金出納所が設立され,日銀がその取扱方になると1支店6代理店の閉鎖に追いこまれた。しかし,三井も安田もこれを機に,漸次,官金依存から民間の純然たる商業銀行に脱皮するようになった。

【日清・日露戦争と日銀】1884年6月「国庫出納金一時貸借ニ関スル件」で,政府は国庫出納上の一時的不足を日銀からの借り入れによって補うことができるようになった。これによって,政府は緊急な戦費をまず日銀よりの借入金によってまかない,政府資金が散布されて市場にゆとりができたころ,軍事公債を公募してその収入で借入金を返済するという方式をとることができたからである。この方式は,日露戦争のときにも行われた。なお,日清戦争による清国からの償金によって,1897年(明治30)金本位制度が確立した。また,日露戦争の戦費は日清戦争の約8倍で,日本の金融市場ではまかなえず,外債を募集したが,その業務は日銀があたり,外債手取金を在外正貨として保有することが,金本位制の保持につながったのであった。

【第一次世界大戦後経済と日銀】1920年(大正9)3月15日,大戦後恐慌により株式市場は恐慌におちいり,銀行に波及した。4月以降4カ月間に預金取り付けを受けた本店銀行67行,支店銀行102店,うち,休業21行に及んだ。政府と日銀は積極的にこの救済にのりだした。日銀は預金取り付けが始まると朝鮮銀行台湾銀行横浜正金銀行に対し,コール(金融・保険・証券業者間のごく短期の貸借資金)をとることをこれら為替銀行に停止させ,5,000万円を代償にあて,資金として貸与した。政府は銀行取り付けの新聞発表を停止し,日銀は銀行救済のため特別融資を行った。1920年中にその支払準備総額は1億500余万円にのぼった。こうして恐慌は下火となったが,1922年2月に再び全国的な銀行の取り付けや休業が始まると12月15日,救済を宣言し,日銀は2度にわたる特別融資で計3億2,000万円の救済を行った。その後,関東大震災(1923)の金融破綻は,政府がモラトリアム(支払延期)を緊急勅令として出し,日銀は,震災手形損失補償令を公布し,日銀が一般銀行保持の震災手形を再割り引きし,最大限に寛大な融資を行った。

日本銀行法と管理通貨制】1931年9月満州事変の開始により,軍事費の調達を必要とした高橋是清蔵相は,不況期へもどる増税を避けて,歳入不足を公債発行でまかなった。赤字公債を恐慌直後の金融市場で消化することは困難である。そこで,日銀引き受けによる公債発行が考えだされた。政府・日銀の合意で,いかなるとき,いかなる額でも自由に発行できる。それは通貨発行を金準備の制約から大幅に自由とした金輸出の停止=管理通貨制度への移行によって可能となった。1932年6月,兌換銀行条例が改正された。これらは1942年(昭和17)2月の日本銀行法の制定に集約された。同法はナチスのライヒス=バンク法の日本版で,日銀は国家機関的なものとされたため,組織も従来の株式組織から出資組織による特殊法人に改められ,大蔵大臣が監督の任にあたり,政府任命の総裁の下に産業金融統制にあたり公開市場操作公社債の売買)が公式に日銀の任務とされた。兌換の義務も放棄され,日銀券は不換銀行券,実質的な政府貨幣と化した。

【戦後の日銀の体制】太平洋戦争後,1949年6月,日銀内部に政策委員会が設けられ,大蔵省から独立し公定歩合(日銀利子)について,蔵相の認可制や国債以外の債券の認可制が廃止された。

 以後,日銀は公定歩合・高率適用制度(日銀貸出依存のとくにひどい銀行に懲罰的に高率を課す)・公開市場操作などを通じて金融を調節したが,高度経済成長期を通じてオーバー=ローン(貸出超過)の傾向にある。

〔参考文献〕渡辺佐平他編『銀行』1966,交詢社出版局

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