●日本海軍 にほんかいぐん
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1868年(明治1)1月創建され,1945年(昭和20)8月,日本の降伏とともに消滅した,いわゆる“帝国海軍”である。100年に満たない短命であったが,海戦史の上では,近代甲鉄艦時代の海戦術・海戦略に新機軸を開き,また日本史上では,日清・日露の両役に勝利を決した主役として,その史的意義は大きい。以下その変遷を4期に分けて要約する。【日本海軍の創建】日本海軍の創建は,明治官制で三職七分課が定められた1868年にさかのぼる。第1期はこれより以後日清戦争(1894〜95)直前までの建設期とする。幕府からの接収艦4隻をもって出奔した日本海軍は,1875年(明治8)軍艦3隻を英国に発注,同時に3隻の国内建造を決定して本格的軍備に乗り出し,1889年(明治22)度からは5カ年計画による第2期軍備拡張を実施し,明治天皇の海防費援助もあって,大小46隻を建艦し,海軍軍備の基礎を概成した。建艦と同時に人材の養成に着手し,1869年には築地の海軍操練所(のちの海軍兵学校)を再開したほか諸策を講じ,1875年には早くも第1回の遠洋航海を実施した。その他艦隊の根拠地たる鎮守府を1884年(明治17)横須賀に開設,呉(くれ)と佐世保がこれにつづいた。1889年には常備艦隊が新編され,1893年には海軍軍令部の独立をみるにいたった。なお以上の兵制並びに軍備については英国式によることが定められ,また軍備目標となる仮想敵国は,1882年(明治15年)ごろまでロシアを第1としたが,以後は清国がこれに代わった。
【第2期】第2期は日清戦争から第一次世界大戦までの約25年間で,勝利に輝く躍進の時期である。圧倒的優勢な清国海軍に立ち向かう日本海軍がいかに苦悩したかは,開戦直前中牟田軍令部長が辞任した一事が物語っている。ところが開戦後1月半にしておきた黄海海戦において,伊東中将の率いる連合艦隊は決定的勝利を収めた。勝因の一つは連合艦隊が縦陣戦法により射撃効果を高めたこと,他の一つは,中牟田中将に代わって軍令部長となった樺山中将が必勝の信念に燃えて海戦にのぞみ,艦隊将士の士気を高めたことにあった。黄海海戦の結果は,戦局を日本勝利に傾かせた。日露戦争(1904〜05)に臨む日本海軍の首脳は,周到な準備によって勝算を見出していた。東郷連合艦隊司令長官は分撃の基本戦略にのっとり,まず極東ロシア艦隊を撃滅し,次いで増遣されたバルチック艦隊を日本海にむかえ討ち,38隻の敵艦中19隻を撃沈したほか捕獲など15隻に上り,遁走を許したもの4隻に過ぎず,完全勝利を遂げた。このような東郷長官の戦略戦術はやがて“大艦巨砲主義”の名のもとに海戦略史上一時代を画するものである。なおこの大勝利が,日露戦争を日本の勝利のもとに終結させるのである。第一次世界大戦(1914〜18)が勃発するや,日本は“日英同盟”の誼みを重んじ,イギリスの要請に応じ,一部艦隊を地中海まで派遣して,連合国の海上護衛に任じた。
【第3期】第3期はそれ以後太平洋戦争直前までの約20年で,連戦連勝によって国内外の信望のとみに高まった日本海軍が内部矛盾を深めた時期である。すなわちロンドン海軍軍縮条約をめぐり,海軍省(政府)と軍令部とが鋭く対立し,海軍を二分する内部対立へ発展した。またそれは五・一五事件を呼び,海軍に下剋上の風をもたらした。このように海軍は,対米戦争を呼号しながら,日露戦争に備えた明治海軍の切実さをその時期に甦らすことはできなかった。
【第4期】第4期は太平洋戦争(1941〜45)で,日本海軍の終局でもある。開戦時の彼我の戦力は伯仲に近く,加えて開戦勇頭の真珠湾奇襲の大成功とこれにつづくマレー沖海戦の大勝利によって展開された緒戦情勢は,日本に対し勝利への道を広く開いたのであった。しかし日本軍部はこれに乗ずる戦略を見い出さなかった。特に海軍は,勝算なくして戦争に踏み入った過(あやま)ちを改めるに足るこの好機を逸した。そして月日とともに急増するアメリカ海軍に圧倒され,ついに国家を無条件降伏にいたらせた愚を日本陸軍と分ちながら滅んだのである。以上で明らかなごとく,敗軍の根本は,やればできたはずの,勝利の戦略を見出す真剣な努力を怠ったことにある。