●二宮尊徳 にのみやそんとく
アジア 日本 AD1787 江戸時代
1787〜1856(天明7〜安政3)江戸時代後期の農政家。相模国足柄上郡栢山(かやま)村に,利右衛門・よしの長男として生まれる。利右衛門が田畑2町3反6畝22歩を相続してから5年後のことである。通称金次郎。1791年(寛政3),酒匂(さかわ)川氾濫に伴い,田地の多くが土石の下となり,その回復のために借金を重ねた結果,2町余りの田畑は7反余りに減少。そうした一家の浮沈とともに,父利右衛門・母よしが相次いで他界する。尊徳16歳の時である。さらに追い打ちをかけるように再度の酒匂川の氾濫により田地流失。尊徳は家再興の願いをうちに秘めながら伯父万兵衛の家で,読書・勧倹力行の毎日を過ごすことになる。入会山からとった薪を背負って小田原で換金する,あるいは他家の捨苗を廃田に植え込み,それが秋にそっくり自分の収穫として返ってくるなどの体験は尊徳にとって学ぶところ大であった。自らの努力がそのまま自らの利となるという体験は,その後の行動の出発点ともなった。封建社会の網の目をくぐりながら,勧倹力行を実利と結びつけるという尊徳の思想がそこにはぐくまれていった。20歳となった尊徳は生家に戻り,本格的に家再興をめざすが,それは,“並の百姓”のものではなかった。23歳にして早くも1町歩余りの地主に復帰する。そして買い戻した田地はすべて小作に出し,尊徳自身は薪や収穫米の販売・賃稼ぎなどを通じて,小田原の武家・商家とのつながりを深めるようになる。その間蓄えた資金を田畑に替え,3町8反余りの栢山村では有数の地主となり,二宮家の再興をとげることができた。時に,尊徳34歳。【仕法の展開】小田原の武家屋敷に出入りしていたとき,小田原藩家老服部十郎兵衛家の家政立て直しをまかされそれに着手する。尊徳の「仕法」の始まりである。服部家の生活基準を設定して,生活の合理化に結びついた“節約”を徹底させ,5年のあいだに家政回復を成功させる。1820年(文政3)のことである。尊徳の才に眼をとめた藩主大久保忠真より小田原藩分家桜町領の仕法を命ぜられる。5石二人扶持名主格を拝領し,栢山村の田畑屋敷をことごとく売り払い一家をあげて桜町に移る。桜町領は公称4,000石とされていたが,当時1,000俵の貢租もあげることができず,領内は難村状況を呈していた。そこで尊徳は「分度」(収入に応じて支出に一定の限度を設け,その範囲内で生活し余剰のある生活を営むこと)を領主側に認めさせることを第一とした。一方農民に対しては精神教育を施し,勤勉な農民には褒賞を与え,「報徳金」の貸し付けを許すなどを通じて,勧倹力行・貯蓄を徹底させ経済的利益を獲得しうる生活のあり方を追求した。その上で開墾を奨励し,水利事業などをおこなったのである。この間,尊徳仕法の評判が広まるなかで依頼が相次ぎ,1833年(天保4)旗本領青木村仕法,1834年(天保5)細川藩谷田部・茂木領仕法,1836年(天保7)烏山藩仕法,1838年(天保9)小田原藩仕法,1843年(天保14)下館藩仕法,1845年(弘化2)相馬藩仕法に着手する。さらに1843年(天保14)水野忠邦により幕臣に登用され,利根川分水工事計画・日光領仕法と活動を広げることになるが,事業半ばにして70歳の生涯を終えた。
【尊徳の思想】尊徳の仕法の特徴は領主権力を背景としながらも,「分度」という生活基準を設定し,農民の生活原理を「勤倹・貯蓄・推譲」に求め,生活の合理化=経済的利益の実現を根本に置くものであった。こうして尊徳の思想は富田高慶・福住正兄・安居院庄七(あごいんしょうしち)・岡田佐平治親子などによってひきつがれ,とくに静岡県を中心として,安居院庄七が種を薪き,岡田親子が拡大した報徳社運動によって広く普及した。また1904年(明治37),国定教科書に二宮金次郎が登場することに象徴されるように,戦前期日本の精神教育の一つの要として顕彰された。国家的基盤を支える倫理的生活態度の模範として,尊徳の思想は重視されたのである。
〔参考文献〕奈良本辰也『二宮尊徳』1959,岩波書店
『日本の近代化と民衆思想』1974,青木書店
守田志郎『二宮尊徳』1975,朝日新聞社
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