●日朝修好条規 にっちょうしゅうこうじょうき
アジア 日本 AD1876 明治時代
1876年(明治9・高宗13)2月27日,李氏朝鮮の江華府で日本と同朝鮮政府との間に結ばれた修好条規。江華条約・丙子修好協定とも言う。朝鮮を開国させた条約である。日本はこれにより朝鮮の植民地化と大陸の進出の第一歩を踏み出した。【日本の開国要求】日本と朝鮮の修好関係は幕末以来とだえていたが,明治政府が成立すると王政復古を知らせ開国を要求した。しかし李氏朝鮮王朝では鎖国排外を国是とする大院君の執政期で,日本の国交要求を拒否した。その結果日本では朝野をあげて征韓論がおこり,これを背景に武力による威嚇によって目的を達しようとした。
【江華島事件】そのため1875年(明治8)9月雲揚号など三隻の軍艦を朝鮮に派遣し,西海岸を示威的に測量させたところ,同19日雲揚号が江華島近くに投錨した際,同島砲台より領海侵犯として発砲され,応戦し砲台を占領した。この事件を江華島事件という。
【条約交渉】日本政府は江華島事件が起きると,これを好機として全権使節を特派し,同事件の賠償と修好条約の締結を交渉させることにしその旨を外国公使にも通告した。一方内閣法律顧問のフランス人ボアソナードに国際法上開戦できる条件を調べさせ,山縣陸軍卿を下関へ急派し万一の場合の陸軍出動準備を整えて待機させた。12月特命全権大使に陸軍中将兼参議開拓長官黒田清隆,副全権に前大蔵大輔井上馨が任命され,1876年(明治9)1月,一行は6隻から成る艦隊を率いて朝鮮へ向かった。2月10日江華島に上陸し,11日より江華府で交渉が開始された。日本側は13条から成る条約案を提示し,10日以内の回答を求めた。その間,何かにつけ大軍上陸をにおわせ威嚇した。朝鮮側では,排外攘夷政策の継続を要求する世論が強く,また政府内にも世界の大勢を見て主体的準備を行った上で自主的に開国すべきであるとする官僚もいたが,日本の出兵をおそれ,さらに宗主国の清でも,李鴻章が,日朝開戦して敗れた場合,清に不利と判断し穏便に解決するように圧力をかけたため,ついに日本の要求を容れ,ほぼ原案通りの全12カ条から成る修好条規が2月27日調印されるに至った。
【条約の内容】[1]朝鮮は自主の国で日本と対等の権利を保有すること。[2]釜山ほか二港(のち元山・仁川と決定)を開き,開港地での日本人の居住と貿易の権利を認め,彼らに土地の賃貸・家屋の建造・賃貸を認めること。[3]京城に日本公使館,各港には領事が駐在すること。[4]日本人の領事裁判権を認めること。[5]沿海の測量・地図の作製権を認めることなどであり,江華島事件の賠償問題にはまったく触れてない。同事件の意図が示されていると思える。第1条の朝鮮を自主の国として認めたことは征韓派の不満をかったが,宗主国清との関係を断ち切り清に対し属国ではなく独立国であることを謳ったのであって,将来日本が朝鮮を勢力下に置こうという意図を含んでいた。最恵国条款は日本側草案にはあったが,朝鮮側が日本以外の国と条約を結び通商する意図はないと言明したので日本側は固執せず撤回した。また通商章程は条約調印後にもち越され,関税は輸出入とも無税とする日本案がそのまま受け入れられた。公使・領事,その家族と随員などの内地旅行,開港場遊歩地区域設定の諸件をめぐって難航したため,朝鮮側は関税賦課のことまで考えるに至らず,朝鮮側の発言のないまま協定が調印された。なお第12条に〈本条規の変革を禁じ,永久に守るべきこと〉とあるように条約有効の期限は定めなかった。
【李氏朝鮮の態度】欧米列強の開国要求に対して激しく抵抗した朝鮮が,日本とは抵抗もなく不平等とされる条約を結んだのは,当時李氏朝鮮内で攘夷派の大院君からこれに反対する閔氏派に政権が移ったことが関係している。閔氏政権は日本の軍事行動を恐れ,条約内容を吟味するよりも一時逃れとして要求通りに調印し,実施に際し無視すればよいと考えていた。