50音順    検 索

●日中平和友好条約 にっちゅうへいわゆうこうじょうやく

アジア 日本 AD1978 昭和

 1978年8月12日,北京において園田直・黄華日中両国外相が調印し,同年10月のトウ※注1※小平副首相の来日により批准手続きが完了し発効した。条約は前文と次の五カ条から成る。第1条では平和五原則国連憲章の尊重・紛争の平和的解決を確認した。第2条は「覇権条項」であり,両国が〈アジア・太平洋地域においても又は他のいずれの地域においても覇権を求めるべきでなく,また,このような覇権を確立しようとする他のいかなる国又は国の集団による試みにも反対する〉ことを表明した。第3条では経済・文化交流の発展・促進を提唱した。第4条は「第三国条項」として,〈この条約は,第三国との関係に関する各締結国の立場に影響を及ぼすものではない〉ことを明記した。第5条では10年間の有効期間と廃棄手続きを規定した。

【条約交渉と覇権条項】1972年の日中共同声明では,〈両国間の平和友好関係を強固にし,発展させるため〉,また〈両国間の関係を一層発展させ,人的往来を拡大するため〉,平和友好条約と貿易・航空・漁業・海運などの実務協定の締結を目的とした交渉を行うことが合意されていた。一連の実務協定については1974〜1975年までに締結が終わり,平和友好条約も1974年11月から次官級の予備交渉が開始され,また台湾問題での合意ができていたことからその締結は時間の問題と見られていた。しかし締結に6年以上を要したのは,「覇権条項」の取り扱いをめぐって交渉が紛糾したからである。「覇権条項」は日中共同声明のみならず,1972年の米中共同声明・上海コミュニケにも明記されており,当初は一般的な外交原則を述べたものと理解されていた。しかし中国が激化する中ソ対立のなかで「覇権反対」を対ソ戦略のシンボルとして使い始めたことから,「覇権条項」を条約に盛り込むのか,その場合にはいかなる表現を用いるのか,それは日中の共同行動を含むのかなどをめぐって国内で議論を呼ぶこととなった。またソ連がこの問題について繰り返し警告を発したことも条約交渉を紛糾させる一因となった。1975年11月,宮沢外相は日本側の見解として,「覇権反対」は外交の一般原則であり特定の第三国(ソ連)をさすものではないと条約に明記するように主張した。その後の交渉では,この「第三国条項」の扱いが「覇権条項」とならび焦点となった。そのほかにも,条約の交渉には次のような争点が存在した。第1に,日本を敵視した中ソ友好同盟相互援助条約の存続中に,日中平和友好条約を締結することの不条理を説く主張が国内で強まった。中国側は1980年4月に期限を迎えるこの条約はもはや“有名無実”であると述べていたが,日本側は公式にその廃棄の確約を得たいと望んだ。第2に,日中共同声明で棚上げにされた尖閣列島の領有権を明確にすべきであるとの意見が自民党内で主張された。1974年4月に尖閣列島付近で起きた中国漁船の領海侵犯事件は,この問題を再燃させた。また両国の不安定な政治状況も,交渉を長引かせる一因となった。1974年11月に成立した三木内閣は,党内基盤の弱さから対中政策の調整能力を欠いていた。一方,そのころ中国では,ポスト毛沢東を睨んだ権力闘争が展開されていた。結局,交渉の再開は,1976年末に成立した福田内閣と華国鋒政権に持ち越される形となった。

【条約の意味】このような争点が存在したにもかかわらず,条約は1978年8月12日に調印を見た。条約の締結は,日本にとっては戦後処理外交を脱した最初の自主外交の成果となった。一方,「四つの現代化」をめざす中国にとっては,先進国から経済・技術協力を取りつける契機となった。条約締結に対して,米国は8月10日,調印に先立ち異例の声明を出し日中関係の安定・発展を歓迎した。しかしソ連はこの条約が反ソ同盟の性格をもっているとして非難した。いずれにせよ日中平和条約の締結が東アジアの国際関係に波紋を及ぼしたのは事実であり,これが同年11月のソ越友好協力条約の締結と同年末に発表された米中国交回復を促したと見ることもできる。

00

01