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●日ソ中立条約 にっソちゅうりつじょうやく

アジア 日本 AD1941 昭和

 1941年(昭和16)4月13日,外相松岡洋右(ようすけ)・駐ソ大使建川美次(たてかわよしつぐ)・ソ連人民委員会議長兼外務人民委員モロトフによりモスクワで調印された条約(前文・4カ条)。1939年11月,駐ソ大使東郷茂徳(しげのり)は,外相野村吉三郎に“日ソ不可侵入条約”の締結を具申した。東郷の意図は,[1]日中戦争解決,[2]日米国交調整の有利な展開,にあったが,野村外相(阿部内閣)も,有田八郎外相(米内内閣)も日本とイギリス・アメリカとの関係を悪化させるとして東郷案に反対した。陸・海軍・外務の三者が協議の結果,不可侵条約の代案として“日ソ中立条約”案を作成した。1940年7月,東郷大使を通じて本条約案をソ連に提案したが,ソ連の回答以前に米内内閣が倒れ,第二次近衛文麿(ふみまろ)内閣に引き継がれた。同年8月,ソ連は,[1]北樺太の石油・石炭利権の解消,[2]敵対的な同盟への不参加と不可侵,[3]日本の南方進出によるソ連の中国および太平洋諸国との関係悪化,以上の三項について日本の対応を釈明することを要請した。なお,ソ連の回答には,中国重慶政権へのソ連の援助中止の件は含まれていなかった。東郷大使は小利を去り大利につくこと,すなわち日本の北樺太利権の解消によるソ連への譲歩は,日ソ中立条約のためにはやむをえないと主張した。しかし松岡外相は新しい構想によって日ソ国交を調整するのが得策と判断し,東郷大使提案の条約交渉を中止した。1940年9月27日,“日独伊三国同盟”が締結され,10月末に建川大使がモロトフに示した日本案は,樺太利権解消問題は後日に解決をはかることとして不可侵条約を先行させる内容であった。モロトフは日本の利権解消を前提とする“中立条約”を提案し,結局は松岡外相が訪ソして,建川大使・モロトフと会談,日ソ中立条約の調印に漕ぎつけた。本条約は,[1]平和・友好関係の維持と両国の領土保全・不可侵,[2]第三国との軍事行動による紛争中は,中立を守ること,が明記され,5年間の有効期限を有していた。

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