50音順    検 索

●日ソ国交回復 にっソこっこうかいふく

アジア 日本 AD1955 昭和

 1955年(昭和30)3月に成立した第二次鳩山一郎内閣は,憲法第9条の改正と,日ソ復交を政策の二本柱とした。これは,米ソ戦争勃発の可能性と日本の軍事防衛をリンケージ(連けい)させた再軍備の布石として憲法改正の必要を主張したものであった。また日ソ国交の回復によって日本の国連加盟をソヴィエトが承認することをめざした打開策でもあった。しかし,総選挙で議席の3分の1を確保した社会党や国民の革進勢力の改憲阻止により,第9条の改正には至らなかった。一方,日ソ国交の交渉は同年6月にロンドンにおいて,日本全権松本俊一とソ連全権マリクとの会談が開始され,9月半ばまでに15回に及んだ。マリクは,ハボマイ・シコタン諸島の日本への返還は認めたが,日本側の南千島(エトロフ島とクナシリ島を含む)全面返還の要求を拒否したため,領土問題をめぐる日ソの対立は両国の国交回復を著しく困難にした。他方,急ピッチで再軍備へ踏み切った鳩山内閣への野党と革進系国民の反対運動が活発になり,米軍基地拡張阻止・母親大会・原水禁世界大会などが相次いで高まった。これは日米安全保障体制そのものに対する抵抗運動の活性化を促進した。1956年1月に再開された日ソ交渉は,3月に無期休会となり,7月から重光葵外相を首席全権としてモスクワで交渉に入ったがこれもまた進展しなかった。自民党内でも,鳩山首相・河野一郎らの早期妥結案と,吉田茂・池田勇人など親米派の反対論が対立し,アメリカや財界主流の慎重論も拍車をかけた。鳩山主流派は,南千島返還には固執しないで日本が国連に加盟した後に,再び領土問題(エトロフ・クナシリ両島の返還要求)の交渉に入り得るとの見解を示した。鳩山首相は同年10月にモスクワを訪問し19日に日ソ共同宣言を行った。しかし,これは平和条約ではなくてただ日ソ間の戦争終結と復交にとどまり,領土問題では上記条約の締結後に,ハボマイ・シコタン諸島の引渡しを明記するにとどまった。日ソ国交回復によって同年12月には日本の国連加盟が承認された。しかし,日ソ間の領土問題は解決したわけではなく,親米勢力や財界主流はこれを不満として鳩山内閣を退陣に追い込んだ。1956年12月には石橋湛山内閣が成立したが首相の病気によって短命に終わり,翌1957年2月,岸信介内閣が発足するに至った。

〔参考文献〕信夫清三郎編『日本外交史,1853―1972』II・1974,毎日新聞社

01