●日ソ共同宣言 にっソきょうどうせんげん
アジア 日本 AD1954 昭和
1954年(昭和29)12月,自主外交と中ソ国交改善をめざす鳩山一郎内閣が登場,ソ連外相モロトフは,日本と国交正常の用意があることを声明,翌1955年1月25日,ソ連代表部臨時主席ドムニツキー A. I. Domnitskij は,東京の鳩山邸を訪ね,日ソ両国正常化に関する文書を手交した。第一次日ソ交渉(全権松本俊一・同マリク Y. A. Malik 会談。6月1日よりロンドン),第二次日ソ交渉(外相重光葵・同シェピーロフ D. Shepilov 会談。1956年1月17日よりロンドン)の結果,領土問題をめぐる見解の対立(とくに日本の南千島固有領土論)のため難航し,交渉は3月20日の第23回会談で無期休会に入った。ソ連は,平和条約締結後にハボマイ・シコタン両島を日本へ返還すると提案したが,重光外相はエトロフ・クナシリ(北方領土問題)両島は日本固有の領土と主張し,上記四島の返還を要請したためソ連側は交渉を打ち切った。しかし,日本側は,領土問題を一応棚上げにして,[1]戦争終結宣言,[2]大使館設置,[3]抑留者即時送還,[4]漁業条約発効,[5]国連加盟承認,の5条件による交渉妥結をめざし,鳩山首相・河野一郎農相・松本俊一衆議院議員と,ソ連大臣会議議長ブルガーニン・最高会議幹部会員フルシチョフ・大臣会議議長第1代理ミコヤン・第一外務次官グロムイコ・外務次官フェドレンコの参加により1956年(昭和31)10月19日,“日ソ共同宣言”(前文・10カ条)がクレムリンで調印された。署名は,鳩山・河野・松本・ブルガーニン・シェピーロフの五名連記。終戦後12年目にして,日ソ国交回復が実現し,両国の関係は新段階に入った。懸案の抑留邦人1,025人は同年12月に帰国したが,領土問題は未解決のまま今日に至り,したがって正式な日ソ平和条約は未締結である。なお,日ソ共同宣言に基づいて,日本は同年12月18日に80番目の国際連合加盟国として国際的に承認された。