●日宋関係 にっそうかんけい
アジア 日本 AD
隋・唐時代における中国と日本との関係は,国家間の純然たる公的通交時代を形成していたが,遣唐使廃止(894)以後,宋・元時代を経て足利義満が対明朝貢貿易を開始する(1401)まで,両国の正式な関係はほとんど絶えてしまっていた。したがって宋代(960〜1276)における両国の交渉はもっぱら民間の貿易商人の手に委ねられていた。ただし,民間の私的通交にすぎなかったが,その往来は正式な通交時代よりも少なかったわけではない。むしろ国家同士の一定の取り決めに律せられた正式な通交時代よりも,かえって自由にしてかつ活発な交渉が見られた時期さえあった。この時代の両国交渉は,正式な通交時代とは異なり民間商船の往来であったがために,通交を展開せしめる原動力が商業的意欲に求められる。したがって宋・日両国の関係は,通交と貿易とがこの時においては不可分で一体のものであったことが大きな特色である。ただし通交の核心がどこにあったかと言えば貿易そのものに他ならないから,宋と日本の間の貿易関係の発生はすなわち宋・日間の交渉関係の成立ということになる。宋・日貿易は,彼我両国間に持続的な正式関係を導き出すところまで進展してはいないが,その交渉はきわめて平穏であり時には公文書などのやりとりさえ見られた。したがって彼我国民の私的貿易もきわめて平和のうちに,武力によるのではなく交渉を通じて展開させた。宋王朝はかつての大帝国唐がそうだったように,政治的にもまた文化的にも当時の東アジア世界における中心的位置にあり豊かな経済力をもっていた。それは唐代後半期における農業生産力の発展と商品経済の発達・展開とを受け継ぐものであった。唐代にすでに華北では小麦栽培の二年三毛作が,華中では水田二毛作が行われていた。しかもこのような農業生産力の上昇を基盤として草市や鎮市と言われる農村の小都市が出現し,定期市が開かれ,北宋時代には長江(揚子江)下流地域から浙江・福建方面においても水稲二期作が可能となり,茶の生産販売や手工芸品としての陶磁器・絹織物・紙・筆・墨などの生産が発達し,金・銀・銅・鉄・錫などの鉱業生産,および海塩・池塩などの製塩業も政府の統制下にあって勃興した。都市内では自由に店舗が設立され,都市外の草市・鎮市とあいまって商品経済の進展が見られた。さらに,銅銭の鋳造額は年々増大し,交子・会子などの紙幣も発達して,貨幣経済発展の具体的表れとしての商品取引きを一段と充実させた。以上のような情勢にあって,日本もその他の東アジア諸国と同様に宋との通商関係をもち,日本は中国から香料・綾・錦・絹織物・陶磁器・薬品・書籍・紙・筆・墨などを輸入し,とくに12世紀以降は銅銭すなわち宋銭の輸入が顕著になる。これに対して日本から中国への輸出品は金・真珠・水銀・硫黄・材木・螺鈿・蒔絵・扇子・刀剣などであった。この時代に見られた中国を中心とする東アジア世界の国際政治の位置づけは,唐が周辺に強い影響力を行使したのに比べて宋の場合そのような傾向は幾分か薄れたが,政治面での国際関係を凌駕する大規模な経済面での交渉が東アジア世界に出現し,日本もその中に含まれていた。そしてこの関係は,女真族によって建国された金が興って契丹族の遼を滅亡させ,さらに南下して中国に侵入し北宋を滅亡させ,南宋と金が南北に対立することになっても変化しなかった。南宋時代に,平清盛が大輪田泊(兵庫港)を修築したのもこの関係を重視したからであり,また明庵栄西や希玄道元ら数十名の入宋僧が新仏教を求めて中国に渡航したのも宋の商船に便乗してであった。宋の商人との貿易によって莫大な利潤を得ることを知った日本の荘園領主や九州博多の商人たちは,従来の宋の商人の渡来による受け身の貿易に満足し得ず,したがって積極的な能動的貿易を行うようになった。ところが当時の日本の商船は極めて幼稚で,船底が平らであるために波をきって航行できず,しかも帆柱の安定度や帆のつけ場所も悪いために海洋の渡航がむずかしく,季節風の利用もまだ知られなかった。日本商船が明らかに貿易のために宋に渡航したのは1176年(南宋淳煕3・安元2)で,それは南宋の治世(1162〜1189)時である。孝宗は国内政治に心を用いたばかりではなく,外交においても積極的な方針をとった。なかでも貿易方面では北宋の神宗時代(1067〜1085)の積極政策に倣って貿易を奨励し,外国商人の来航を盛んにするために関税の税率を引き下げた。また,宋商人の海外渡航をも奨励するために,商船の貨物のうち税徴収済みの物への再度の課税を禁じ,公憑(船舶国籍証明書)を発給した港に必ず帰港して関税の徴収を受けるようにしたほか,海外へ渡航した商船の帰港期限を定め,関税をまぬがれようとする者を処罰するなど諸制度を整えたうえで貿易の振興策をとり,国庫の増収をはかった。一方,日本においては,12世紀後半に政権を手中に収めた平清盛は,すでにその父忠盛が鳥羽上皇の院司となって勢力をのばし,瀬戸内海の海賊討伐を行い西海方面に地盤をかため,平家の海外貿易への地ならし的役割を果たし,そのほか大宰府の官使と貿易管理権を争うなどして早くから対宋貿易の利益に着目して宋商人と関係をもったことを基礎に,宋との貿易に大きな注意を払った。そして清盛は京都の商人などをして宋側の商人と直接貿易を行わせたばかりでなく,彼自身も大輪田泊に近い福原に別荘を構え,一時はここに都を移すという思いきったこともやり,かつて見られなかったような積極的方針のもとに貿易を奨励した。こうして宋も日本もそれぞれの国家指導者が貿易振興という立場をとった点でタイミングが一致していたから,貿易の発展には最も好ましい条件に恵まれた時期を迎えていたと言える。また,貿易とは別に,宋儒「性理之学」即ち宋学もこの時代に日本に伝えられた。宋学の集大成者の一人は周敦頤(1017〜1073)で,彼独特の発想によるものを中心としつつも禅や華厳の教学に負うところが多い。したがって禅の教理と深層において相照応するものがあったばかりでなく,その実修としての居敬窮理は禅の打坐見性と一脈通ずるものがあり,それだけに禅僧にとって理解しやすくかつ親近感を抱かせる点があった。しかし儒者側がヒステリックに排仏論を唱えたのに対して,癡絶道中・無準師範などの禅僧らは儒仏不二を説き三教一致を唱えて儒学を包容する立場をとり,これが宋代禅林における支配的風潮となって,中でもとりわけ江南の禅林では宋学の学説がさかんに研究されていた。ところで日本の禅僧たちが万里の波涛を越え,烈々とした文化的意欲・興味を抱いていたのは,実は宋学が学界・思想界を風靡した南宋以後の世界であり,彼らが禅の修養をやりその奥義を身につけたのは,ほとんどは宋学を是認しこれを包容していた南宋以後の禅林であった。一方,日本へ渡航し永住した多くの中国禅僧もまた南宋からやって来たのであった。したがって宋学が彼ら禅僧に担われて禅宗とともに日本へ輸出されることとなり,「上国之風」として日本の学界の新潮流を形づくるようになった。鎌倉・室町時代に至ってそれは隆盛を見,後の江戸時代には官学となって徳川幕府二百六十余年の治世における文教政策の基とされ,日本の近世の学問・思想・政治の各方面にわたって大きな影響を与えることになる。当時日本へ渡航した宋僧は蘭溪道隆・兀庵普寧・大休正念・無学祖元などのいずれも名僧で,中国に渡った日本僧侶には明庵宋西・希玄道元以外に円尓弁円・南浦紹明・約翁徳倹などがあげられる。彼らは日本に禅宗や律宗を伝え,さらに宋学をも日本に伝えたばかりではなく,禅籍・儒書・詩文集・医書などを日本へもたらす役割を果たした。これら宋槧本の東伝は日本における木版印刷事業の発達を促し,やがて京都・鎌倉における唐様版の興隆となって表れるようになった。この唐様版の比較的早い例は京都の泉涌寺版であって,その開版に関した人々はおおむね宋僧もしくはその弟子である。そして当時の入宋僧は経巻・書籍をもち帰ったほかに仏舎利・仏画・頂相画およびその賛をも伝えた。日本禅宗の興隆とともに頂相画は盛んに描かれるようになった。入宋僧の日本へもたらしたさまざまの文物のうち,後世の日本人の生活に最も大きな影響を与えたものの一つは栄西の手による茶種の東伝である。歴史上茶が日本へ伝わった例は奈良時代にすでに記録されているが,栄西が茶種を伝え,『喫茶養生記』2巻を著して喫茶による養生法を説いたことなどをきっかけとし,喫茶の風習は,この時代に禅僧から漸次日本の庶民の間に伝わって今日までに及んでいるのである。〔参考文献〕『宋史』(百衲本)
木宮泰彦『日華文化交流史』1951,冨山房
森克己『新訂日宋貿易の研究』1975,国書刊行会
同氏『日宋文化交流の諸問題』(同上)
中嶋敏『中国の歴史』5,1974,講談社