●日清戦争 にっしんせんそう
アジア 日本 AD1894 明治時代
【開戦に至る過程】明治維新以後,日本は朝鮮支配を対外問題の重要課題としていた。そのために1876年(明治9)の日朝修好条規(江華島条約)の第1条に〈朝鮮ハ自主ノ邦〉であると規定したが,これは日本が朝鮮の自主を尊重するためのものではなく,朝鮮支配のために清国と朝鮮との宗属関係を否認するためのものであった。日本はこの不平等条約を利用して朝鮮に対する政治的・経済的支配を強化していた。1882年7月漢城(ソウル)で兵士が蜂起して腐敗した閔氏政権を打倒するとともに,日本公使館も襲撃する壬午軍乱がおこった。この事件で日本は公使館保護を名目にして軍を出動させたが,清軍は朝鮮政府要人の要請で出兵し,ソウルで日清の両軍が衝突する危険性があった。しかしこのときは対清戦争の軍備ができていなかったので自重したが,その代わり対清戦争のための本格的な軍備拡張を開始する。日清の両国はこの事件を口実にして朝鮮に駐兵させた。1884年12月,金玉均らの開化派が日本軍の支援を得て甲申政変を起こして開化政権を樹立したが,やはり清軍の干渉で三日天下に終わった。このときもソウルで日清の両軍が開戦する危険があったが両方とも自重し,翌年の4月,天津条約を結び日清両軍は朝鮮から撤退した。当時の朝鮮をめぐる日清の対立は,日本は朝鮮に対する清国の宗主権を排除して植民地的支配をもくろんだのに対し,清国は日本の攻撃をかわして宗主権の保持のために対抗していた。日本は1890年代の初めには,対清の軍備拡張をほぼ完了させて1893年には参謀次長川上操六が来るべき開戦に備えて清・韓の現地を視察旅行している。当時の伊藤博文内閣は条約改正問題などをめぐって,野党の対外硬派の反対で窮地に追い込まれていた。1894年(明治27)3月の総選挙でも野党が優勢を占め,5月31日には内閣弾劾上奏決議案が衆議院で可決され,政治的危機に直面していた。同年の春,朝鮮の全羅道でゼンホウジュン※注1※らが民乱を起こしたが,広範な地域に広まり反封建・反侵略の農民戦争へと発展していった。この戦争を自力で鎮圧するめどがたたなかった朝鮮政府は清国に支援を要請した。日本は清国の出方に注意を払っていたが,清国に出兵要請したことを確認し,6月2日閣議を開き日本軍の出兵を決定するとともに衆議院を解散した。5日には大本営を開設して対清開戦準備を本格化すると同時に日本軍を朝鮮へ出兵させた。朝鮮へ出兵した清軍約3,000に対し,日本軍は約7,000の大部隊であり,しかも清軍が牙山地方における農民軍の鎮圧のための出兵であったのに対し,日本軍は公使館および居留民の保護を大義名分にしながらも,実質的には日清開戦を目的にしていた。日清両国軍隊の出兵で朝鮮が戦場となるばかりでなく植民地の危機に直面したので,撤兵のために農民軍は政府軍と講和を結び平和状態を回復させた。それで日本公使館および居留民の保護の名分はなくなった。また日本軍は首都のソウルを占拠していたが,清軍は牙山に駐屯していたので衝突する機会がないばかりでなく,清軍は壬午軍乱と甲申政変の時と異なり,ソウルへ進撃して来なかったので日本は開戦する機会をつかめなかった。そのうえ朝鮮からは再三強硬な撤兵を要求していたし,清国もまた日清共同撤兵を提案していた。さらにロシアは日本の出兵に対し干渉し出していた。日本は国内事情で撤兵も困難なので強引な開戦しかないと決めていた。そこで当時,東アジアでもロシアと対抗関係にあったイギリスに働きかけて日英条約改正を7月16日に実現し,それを国際的なよりどころにして清軍は属邦保護を名分にして介入しているが,これは江華島条約第1条の「自主ノ邦」の規定に違反するものであるとして,清軍の駆逐を要求する最後通牒を7月20日朝鮮政府に突きつけて開戦に踏み切る。【戦争の経過と講和】7月25日,日本は清軍を乗せたイギリス籍の高陞号を豊島沖で撃沈,護衛艦を撃破して開戦し,7月29日には威歓の清軍を攻撃して勝利し,8月1日初めて宣戦布告を行った。9月15・16日の平壌の戦闘で清軍を撃破して北進し,10月下旬には山県有朋大将指揮下の第一軍は中国東北部(満州)に進撃した。大山巌大将指揮下の第二軍は日本から黄海経由で遼東半島に上陸し,旅順と大連を11月に占領した。海軍は9月17日,黄海の海戦で清国の主力艦隊を撃破して大勝し制海権を確保した。翌1895年3月までに陸軍は遼東半島を制圧し,さらに山東省の威海衛を占領し,首都の北京に脅威を与えるようになり清軍の敗北は決定的となった。平壌の陸戦と黄海の海戦後イギリスは日清間の講和の斡旋に乗り出したが,ロシアを主とする列強の思惑の相違で実現に至らなかったが,11月にアメリカの斡旋で講和は進展するようになった。当時イギリスなどの列強は,これ以上清国の負け戦が続けば清朝が崩壊し,革命がおこり列強の利権に悪影響することを憂慮していたので日清両国に対し講和を勧告するようになった。清の李鴻章は早くから列強に対し講和の調停を要請していた。日本は1895年1月27日の御前会議で,軍部の主張する北京攻略の強硬論を抑えて講和交渉に入ることにした。李鴻章が全権として来日し,3月20日から日本の伊藤博文・陸奥宗光の両全権と下関で講和会談を開いた。3月24日李鴻章が小山豊太郎に狙撃され負傷することもあったが,4月17日講和条約は調印された。条約の要点は,[1]清国の朝鮮独立承認(すなわち日本の朝鮮支配のために清国の宗主権の廃棄),[2]遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲,[3]戦費賠償金2億両(テール),(約3億1,000万円)の支払い,[4]欧米列強が清国にもつ通商上の特権を日本にも認める,[5]沙市・重慶・蘇州・杭州の開市・開港と,そこでの製造業従事権などであった。この開港場で製造業従事権などは,当時の日本の利害よりもイギリスの利益を代弁したものと言える。調印直後の4月23日ロシアはドイツ・フランスと共同して三国干渉をしてきた。日本はこの申し入れを受諾して遼東半島を清国に返還した。その代わり清国から3,000万両(約5,000万円)を受領することにした。5月8日批准交換。
【戦争と朝鮮・台湾】日本が日清戦争を起こした主な目的は,清国を排除して朝鮮を支配するためであった。そのために開戦直前の7月23日の払暁には日本軍は朝鮮の宮城を占領し,反日的閔氏政権を打倒して親日的な開化政権を樹立させた。日本は軍事的には「両国盟約」を締結させて,朝鮮人民と物的資源を動員して戦争に協力させるとともに,経済的には「暫定合同条款」を調印させて,朝鮮の鉄道・電信・開港場などの利権を支配し,政治的には朝鮮政府の主要部署に日本人顧問を配置して,「内政改革」を推進させる名分の下に朝鮮の内政干渉を強めて「保護国」化をめざした。井上馨が朝鮮公使となってその釆配を振るっていた。しかし三国干渉に見られるような日本に対するロシアの牽制の動きと,広範な朝鮮人民の抗日運動などにより,この時点では「保護国」化を断念せざるを得なかった。しかし政治的・経済的既得権の保持に努めた。三浦梧楼公使は赴任早々の1895年10月8日の未明に,日本の軍隊と外交官・民間人を動員して宮城を占領して閔妃(明成皇后)殺害事件をおこし,全国的な反日義兵運動を起こさせる契機をもたらし,日本は政治的にもさらに不利な立場に追い込まれた。また講和条約で日本の植民地に決定された台湾では,日本軍が上陸するようになると人民は頑強な抵抗をして日本軍に大きな打撃を与えていた。
【戦争の意義】日本は近代的な民族統一国家のもとで,強力な軍隊と「国民戦争」と言われたような挙国一致体制で戦ったのに対し,清国では派閥による割拠状態で,日清戦争は李鴻章の北洋軍閥中心の戦争とされ,統一的な集中力は見られなかった。この戦争で,日本は帝国主義国となることによって東アジアの圧迫国となったのに対し,朝鮮・清国は日本を主とする列強の分割対象とされ,植民地・半植民地に転落する転換点となった。また日本軍国主義の本格的な東アジア侵略に対して,朝鮮と台湾の人民は植民地の危機に直面して立ち上がったが,これは東アジアにおける最初の本格的な抗日運動であった。また日本は台湾の割譲で植民地領有国となったし,清国からの賠償金で金本位制と日露戦争のための軍拡の実施などで産業革命を推進させた。また,日本は新たなライバルであったロシアを排除して,本来の目的である朝鮮支配を実現するためには,二つのことを必要としていた。一つは対ロ軍備拡張であり,他の一つは日英同盟の実現であった。
〔参考文献〕参謀本部編『明治二十七,八年日清戦争全8巻』1904〜1907
海軍軍令部編『二十七,八年海戦史全3巻』1905
陸奥宗光『新訂蹇蹇録』1983,岩波書店
田保橋潔『日清戦役外交史の研究』1951,刀江書院
信夫清三郎『増補日清戦争』1970,
中塚明『日清戦争の研究』1968,青木書店
藤村道生『日清戦争』1973,岩波書店
復旦大学歴史系・上海師範大学歴史系編著・野原四郎ほか監訳『中国近代史・2』1981,三省堂
朴宗根『日清戦争と朝鮮』1982,青木書店
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