●日清修好条規 にっしんしゅうこうじょうき
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14世紀の中期以降,足利幕府の努力によって存続した日中関係は豊臣秀吉の朝鮮出兵で破綻し,以後断絶状態となっていた。ただ清が中国を支配するようになった17世紀中期以降になると,清国商人が長崎に来航し唐人屋敷に居留して私貿易をしていた。徳川幕府は欧米諸国に開国した後の1862年(文久2)に長崎奉公に対し,吏員を上海に派遣して日清通商条約の予備交渉をさせたが,上海道台は条約の必要を認めなかった。その代わり欧米諸国に開放している広東・履門・福州・寧波・上海の5港は,長崎奉公の発給した旅券の保持者に限り旅行や貿易を許すことになった。清国人が商人として,また欧米諸国の雇用人として長崎・横浜・神戸・箱館などの開港場に居留する人員が増加するに伴い犯罪もおこっていたが,無条約国の人民なので日本の地方官は処置に困惑していた。明治維新後,明治政府は1870年(明治3),柳原前光と随員として花房義質らを和親条約の下交渉をさせるために清国に派遣した。柳原らは天津で,条約無用論を唱える三国通商大臣成林に対し,現地で急拠作成した条約案を9月に手交した。しかし清国の総理衙門は,明年日本の全権代表の来訪を待ち商議することにした。この条約案は日本政府の承認を得たものではなく,柳原の独断によるものと言われる。翌年3月,大蔵卿伊達宗成を全権代表とし柳原前光を随員にして清国に派遣し,予め用意していた条約案を清国に提示した。この日本の条約案は前年柳原の提示した草案と異なり,1861年の清独修好・通商・航海条約をモデルにしたもので,日本が欧米列強と結んだ条約よりも不平等なものであった。したがって,清国全権代表直隷総督李鴻章は日本案を拒否し,これに代わる清国案を提示した。日本としては,この清国案を拒否すれば交渉は決裂し日本へ引き揚げざるを得なかったので,やむを得ず清国案を基礎にして交渉を開始した。9月13日,本文の修好条規(18条)と通商章程(33条)・海関税則から成る条約は調印された。この条約は,欧米列強と不平等条約を結んでいた日本と清国とが相互に結んだ平等条約であり,双務的性格を貫いていた。主なものは,相互に外交使節および領事を駐在させたこと(第4条・第8条),制限的な領事裁判権を双務的に認めたこと(第8条・第9条・第13条),通商関係についてはほぼ欧米列強並みの待遇を相互に認め合うことなどであった。この条約は四十余日をかけて結ばれたが,一番もめたのは日本の主張する最恵国条款と内地通商権であったが,清国は従来の欧米外国商人による内地通商の弊害からこれを認めないことにしていた(通商章程第14条・第15条)。とりわけ日本は清国と近く,顔や文字も清国と共通なため,内地通商の弊害を防止するためであった。日本政府では,調印されたこの条約文について反対がおこった。左院は全権団を越権行為として処分することを上議した。日本政府は批准前に条約の修正を求め,清国から拒否されたときには廃案にすることを決定した。1872年に日本政府は柳原前光を三たび天津に派遣し,[1]在日清国領事の領事裁判権の削除,[2]佩刀の禁(第11条)の削除,[3]税則の一部変更,[4]第2条の削除を交渉させた。また清国の強い要求による第2条の〈若シ他国ヨリ不公及ヒ軽藐スル事有ル時〉は「互ニ相助ケ」る相互援助規定については,欧米列強から欧米諸国に対する攻守同盟ではないかと疑われていた。日本の修正要求に対し,李鴻章は日本の不信をなじりこれに応じなかった。条約は修正されなかったが,廃案することなく1873年4月30日天津で李鴻章と外務大臣副島種臣との間で批准書を交換した。また清国政府内でも日本を「臣服朝貢の国」として条約反対論が強硬であったが,両江総督曽国藩と李鴻章らの主張によって反対論を抑えて条約を締結した。日本が日清修好条約を急いだ一つの理由として,この対等条約によって当時行き詰まっていた朝鮮との国交を有利にするためでもあった。この条約は日清戦争まで適用された。〔参考文献〕田保橋潔『日支新関係の成立(1)・(2)』史学雑誌,第44編第2号・第3号,1933
藤村道生「明治維新外交の旧国際関係への対応」『名古屋大学文学部研究論集 XLI 』1966
藤村道生「明治初年におけるアジア政策の修正と中国」『名古屋大学文学部研究論集 XLIV 』1967