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●日親 にっしん

アジア 日本 AD1407 室町時代

 1407〜1488(応永14〜長享2)室町中期に活躍した日蓮宗の僧侶。院号を久遠成院と称し,通称を「なべかむり日親」という。上総国埴谷(現在の千葉県山武郡山武町埴谷)の地に生まれ,幼少のとき在地の支配者で一族の埴谷左近将監の養子となった。埴谷氏が中山法華経寺の僧日英に帰依していたことを縁として日英の弟子となり修行。成長して佐賀の孝勝寺に九州総導師職として赴くが,やがて法華経寺から独立した。日親は純正法華信仰の堅持を主張して各地に伝道を行った。1439年(永享11)5月6日,日親は足利義教に対して法華信仰による治国を言上し,翌年,再度これを行おうとしたがその前に捕えられて投獄され,焼けたなべを被せられたり舌を切られたりするなどの拷問を受けた。これによって「なべかむり」の通称がある。1441年(嘉吉1)に赦免されると再び伝道を開始し,広範囲にわたって布教を展開,京都本法寺をはじめとして多くの寺院を開創した。1460年(寛正1)9月,幕府は日親を罪科に処すことを決定本法寺を破却した。次いで九州にあった日親を上洛させたが,日親が京都に着いたのは1462年(寛正3)のことであった。日親は再度投獄され翌年足利義政の母(鬘勝院)の逝去による大赦によって出獄した。出獄後ほどなくして本法寺を再建。ここを拠点として活動を復活させ,1484年(文明16)仮名書きの『本法寺法度』,次いで1487年(長享1)には漢文の『本法寺法度』を制定して門下僧徒の規範とした。このころ拠点である本法寺が手狭となったためか,同寺の拡張を企画して,1487年『本法寺縁起』を著して勧進にあたり翌年9月没した。日親の著書には九州の僧俗に送った『折伏正義抄』(1438),将軍への上呈の書『立正治国論』(1440)をはじめ,『本尊口決』(1462)『埴谷抄』『伝灯抄』(1470)などがある。

〔参考文献〕立正大学日蓮教学研究所編『日蓮教国全史』上,1964,平楽寺書店

中尾・『日親―その行動と思想』1971,評論社