●日光東照宮 にっこうとうしょうぐう
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祭神は徳川家康。家康はその死期に際して,〈一周忌ヲ過候て以後,日光山に小キ堂をたて,勧請し候へ,八州之鎮守に〉ならんと遺言した(『本光国師日記』)。よって1616年(元和2)4月17日家康死去,遺体は久能山に移される。一方,日光山における建廟工事は,翌1617年(元和3)3月に落成した。霊枢は3月15日久能山を発し,4月4日日光山に到着して同8日霊枢を奥院の廟塔に埋葬した。これより先,朝廷は家康危篤の報に太政大臣の宣下を下し,また1617年春には東照大権現の神号を進め正一位を贈った。なお,家康の神祭については,崇伝長老の唯一宗源神道説と天海僧正の山正一實神道説との対立があったが,結局,後者の説をとり両部習合の神として「権現」の神号となった。家康が日光に埋葬されたのも,家康の信任を得ていた天海の影響が大いに作用している。元来日光山は修験道の隆盛をもって知られていた。しかし,それは同時にその武装化・封建領主化への途でもあった。そのため近隣諸豪族間の争いの渦中に巻き込まれ,その結果,1590年(天正18)の小田原の陣において北条氏に味方することとなった。このため豊臣秀吉の怒りを買い,足尾郷・鉢石町を除く所領をことごとく没収され悲運のどん底にあえぐこととなった。この日光山を,1613年(慶長18)家康の命により天海は管轄することになったのである。東照大権現の鎮座は,このような悲境にあった日光山を一挙によみがえらせるものであった。
三代将軍徳川家光は,家康に対して熱烈な信仰的敬慕をもっていた。彼の時代に至って,日光山は面目を一新した。〈世の諺にいへり,未日光を視ずハ結構の語を発すべからず〉(『日光山志』)と言われるようになったのは,まさに寛永の大造替以後のことである。これは,1634年〜1636年(寛永11年11月〜13年4月)に竣工したのである。経費は金56万8千両・銀百貫目・米千石を要しているが,全部幕府の支出である。その建築様式は「権現造り」と言われる。次いで1645年(正保2),従来の「東照社」に対して宮号の宣下があり,「東照宮」と称し正一位の神位が贈られた。また1646年以後は東照宮に対して,奉幣使が毎年派遣されることとなった(例幣使)。さらに家光没後のことであるが,僧天海・公海に次いで,宮門跡として守澄法親王が1654年(承応3)祭祀集団の首長となったことも家光の意によるものであった。以後歴代宮門跡となり輪王寺宮と称した。輪王寺宮は,平時東叡山本坊に住居し,毎年4月・9月・12月の3回登山されるにすぎなかったので,諸務を処理する留守居が日光山に置かれた。留守居は日光山の実権を握る衆徒20院のなかから選任される慣例であって,門跡の眼代として政治的支配を行うものであった。このほか学頭修学院・東照宮別当大楽院・家光の霊廟大猷院別当竜光院・一山の香花院妙道院・慈眼大師(天海)堂別当無量院は衆徒の上に班し,新宮(二荒山神社)別当安養院は衆徒に準ずるものであった。以下,社家(6家)・楽人(20家)・一坊(80坊)などがあってそれぞれ奉仕した。しかし社僧として実権を握っていた衆徒などは,同時に仏葬をもって祀られた大猷廟に出仕した。そして法楽として東照宮神前で仏典の読経を行い,それは大猷廟におけるものとほとんど変わらなかつた。
家康は薬師如来の垂迹として東照大権現として神的に祭られたのである。その意味は何か。それは,大猷廟が一般庶民をまったく拒絶したのに対し,東照宮は「参詣」は許さず差別したが「拝見」は一般庶民にも許した。そこに東照宮の神的表現は幕藩体制国家の公的存在たることを明示したのである。
かくて東照宮は日光山を併合し,その神領は大猷廟領3,600石を併せ,元禄期には日光山神領は2万5,000石余と固定した。その支配は天海の俗線で山口氏が日光山隷下で行ったが,1791年(寛政3)の「寛政御改正」により日光奉行所が行うことなった。
明治維新後の神仏分離により東照宮は別格官幣社として独立したが,終戦後も日光観光の一翼として繁栄している。
〔参考文献〕東照宮社務所『東照宮史』1927
日光山輪王寺門跡内日光山史編さん室『日光山輪王寺史』1966
秋本典夫『近世日光山史の研究』1982,名著出版