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●日韓併合 にっかんへいごう

アジア 日本 AD  【日本の植民地化政策】明治維新後、日本は朝鮮支配をもくろみ、1894年(明治27)の日清戦争はそのための戦争であった。しかしライバルの清国には勝利したが、三国干渉と朝鮮人民の反抗でこのときは断念せざるを得なかった。その代わり日本は、臥薪嘗胆のスローガンのもとで対露戦争のための軍備拡張とともに、ロシアと対立するイギリスとの同盟協約(1902)を結んで1904年2月8日に日露開戦する。日本は開戦と同時に2月8日朝鮮に上陸して、首都の漢城(ソウル)をはじめ主要な地域を占領した。朝鮮政府は日露戦前の1月21日に中立を宣言していた。それにもかかわらず日本は占領体制を利用して2月23日に日韓議定書を締結させた。この条約は対露戦争のための軍事同盟であるばかりでなく、朝鮮人民の抗日蜂起に対しても日本軍でこれを「合法的」に鎮圧できるようにし、また朝鮮政府は全面的にこれに協力しなければならなかった。この議定書によって、朝鮮政府は日本に従属させられることになった。8月22日に第一次日韓協約を調印させて、日本政府の推薦する人を朝鮮政府の外部と財政の顧問として採用することになった。財政顧問に目賀田種太郎、外交顧問にアメリカ人のスチブンスがなる。スチブンスに対しては日本の在野では反対があったが、彼は永年駐米日本公使館に勤務していたので、日本政府の指導の下で外交顧問につかせ、日本の植民地化政策を国際的により円滑に遂行させる思惑からであった。この顧問官は、朝鮮政府の政策・法令を事前に査閲することになっていた。このほかにも警察に丸山重俊、軍部に野津鎮武、宮内府に加藤増雄など多数が就任した。これを契機にして「顧問政治」が行われていた。日露講和条約後の10月27日、日本は韓国の「保護」を閣議で決定し、伊藤博文を特派全権大使として韓国に派遣して第二次日韓協約の調印を迫った。受け入れに抵抗していた韓国皇帝(高宗)に対し、この案は日本政府の確定議であるので反対するのは自由だが、それは韓国の立場を一層不利にすると伊藤は強調し、韓国政府の閣僚にも圧力をかけて11月17日に調印させた。これを「保護条約」とも言う。この条約で韓国の外交に関する事項はいっさい日本政府が担当することになり、それを現地で指揮・監督する名目で統監府がソウルに設置された。初代統監には条約を押しつけた伊藤博文(在任1906〜1909)が就任した。統監は、朝鮮駐剳の日本軍を武力的背景として、朝鮮政府に圧力をかけると同時に、日本人顧問官を指揮して植民地化政策を推し進めた。1907年6月、高宗はハーグの万国平和会議に密使を派遣して「保護条約」は韓国皇帝の批准がなく不法なものであると訴えたが取り上げられなかった。日本は密使事件を日本に対する宣戦布告であると強調し、日本に抵抗的な高宗に代えて皇太子を皇帝(純宗)に就かせる。またこの機会を利用して7月24日、日本は第三次日韓協約を締結し、韓国政府は統監の指導を受け、諸政策は事前に統監の承認を得るとともに日本人の次官を採用させることを規定させる。内部次官に木内重四郎、農商工部次官に岡喜七郎、度支部次官に荒井賢太郎らがなる。従来の顧問だと、政策・法令の査閲役であったのに対し、次官は政府内部で実権を掌握して植民地化政策を直接推進させることができるようになった。それだけ「保護権」の拡大化であり、これによって「次官政治」と言われるようになる。7月31日には韓国軍隊の抜き打ち解散が強行され、10月29日には韓国の警察権を日本が指揮・監督する条約を結ばせ、松井茂が韓国政府の警務局長となり警察権を握る。司法権も1909年に日本が指揮するようになる。こうして韓国政府の主な権限はすべて日本に掌握され、韓国政府は形ばかりとなった。また朝鮮の貨幣・金融・鉄道・通信・鉱山などの諸権益も日本に支配され、日本資本主義の市場と原料供給地として隷属させられた。2月伊藤は帰国して、桂太郎首相・小村寿太郎外相と三人で韓国併合を協議し、〈適当ナル時期ニ韓国併合ヲ断行スル〉ことを閣議で決定した。6月に伊藤は統監を辞し、11月26日、中国東北部を視察旅行中、ハルビン駅で朝鮮の独立運動家安重根に射殺された。これを一つの口実にして、日本は翌1910年(明治43)5月に、陸軍大臣寺内正毅を現任のまま第3代統監に任命し、8月22日に「韓国併合条約」を調印させ8月29日に公布し、朝鮮は名実ともに日本の植民地となった。この条約は韓国の李完用内閣と締結したものであるが、第1条では韓国皇帝が一切の統治権を永久に日本皇帝に譲与するとあるほか、条約の重点は第3条から第5条に規定されている韓国の皇帝をはじめ、皇族・大臣・貴族などの優遇処置にあった。これによって韓国皇族は日本の皇族に列せられ、李王家となり、皇帝は李王、前皇帝は李太王と称せられる。日本に追随した朝鮮の支配層は日本の爵位を受け年金も支給されることになる。要するに、日韓議定書からの政策である朝鮮の支配層と人民を分断し、支配層には金銭と爵位などで買収し手先として植民地政策に利用するためであった。人民については、第6、7条で日本の植民地政策に従順なものに対しては、生命・財産を保護し、才能のあるものには日本の官吏に登用するともある。こうして、これまでの統監府は総督府となり、統監は総督となる。陸軍大臣寺内正毅は引き続き初代総督を兼任した。その後も総督は陸海軍大将から選び、天皇に直隷し朝鮮の陸海軍を統率するとともに、立法・行政・司法の権力を一身に集中した権力者であった。この総督の下で朝鮮人の政治・結社・言論・出版・教育などの自由は厳しく抑圧される軍隊による武断政治が実施されると同時に、土地調査事業や会社令などで経済的な収奪も強化されていた。

【朝鮮人民の抗日運動】日本の朝鮮植民地化政策に対する反対運動は、「保護条約」が明らかになったのを契機にして一挙に展開するようになった。元議政趙秉世をはじめ、多数の高級官僚らの抗議自決が相次いだ。その後、二つの系統の反日運動が展開された。一つは反日義兵運動であり、他の一つは、愛国文化啓蒙運動である。義兵運動は衛正斥邪派の崔益鉉・柳麟錫などの儒者が指導者となって農民大衆を結集させて、武力によって日本軍と抗戦して朝鮮の国権回復をはかった。運動は広範な地域に広まり、山岳地帯を根拠にして盛り上がり、軍人と平民の指導者が台頭するようになるが、日本軍の徹底的な鎮圧作戦により併合前後になると、国内から中国東北部の間島地方とシベリア方面に移動して朝鮮民族の解放のための独立軍を形成し武力闘争を展開していた。愛国文化啓蒙運動は、従来の開化・独立協会運動を継承・発展させたブルジョワ民主主義運動であるが、やはり「保護条約」に反対して国権回復のブルジョワ民族運動を展開した。義兵運動が武力中心であったのに対し、この運動は言論・教育・産業に主眼を置く国権回復運動で、都市のインテリ・学生・市民が中心となっていた。この運動も日本の軍事力により厳しく弾圧された。

【欧米列強の動向】列強の主な国は日本の朝鮮支配を承認していた。イギリスは1902年の第一次日英同盟協約で、日本が東アジアでロシアの南下を牽制することと、「極東の憲兵」の役割を担って清国におけるイギリスの権益の保護に協力する代償として、日本の朝鮮支配を承認していた。1905年8月の第二次日英同盟協約では、日本はイギリスのインド支配を支持するのと引きかえに、イギリスは日本の朝鮮支配を認めた。アメリカは同年7月の桂-タフト秘密協定で、日本の朝鮮支配とアメリカのフィリピン支配を相互に承認するようになった。ロシアは9月15日の日露講和条約の第2条で日本の朝鮮支配を承認させられている。これで同年11月の日本の閣議では、日本の朝鮮植民地化に対し〈英米両国ハ既ニ同意ヲ与ヘタ〉し、日露講和条約でも規定していると強調して、朝鮮の「保護条約」に踏み切る。この条約を契機にして、イギリス・アメリカなどの列強はそれぞれの在韓外交機関を引き揚げた。

【日本人民の反対運動】日本人民の大部分は日本の朝鮮植民地化政策を支持していたが、少数ではあったが、幸徳秋水・片山潜などの社会主義者がこれに反対していた。しかしこれもまた厳しく弾圧された。日本は朝鮮植民地化を推し進める方法は、強力な軍事力を基本としながらも朝鮮の主権を一つ一つ時間をかけて奪取し、「併合」のときにはもはや有効な抵抗ができないようにしていた。

〔参考文献〕山辺健太郎『日韓併合小史』1966、岩波書店

姜在彦『朝鮮近代史研究』1970、日本評論社

朴慶植『日本帝国主義の朝鮮支配 上』1973、青木書店

『岩波講座日本歴史17』1976、岩波書店

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