●日韓条約 にっかんじょうやく
アジア 日本 AD1965 昭和
1965年(昭和40)6月22日,東京で調印され,同年12月18日,ソウルでの批准書交換で成立した日本と韓国間の条約で,アメリカの利益に立脚し朝鮮民族の統一を無期延期させるとともに,日韓体制と呼ばれる癒着構造,日本の軍国主義・帝国主義的復活の画期となったもの。日韓条約と言えば「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(全7条で略して日韓基本条約とも言われているもの)だけを考える人が多い。しかし日韓条約と言うとき,正確には,基本条約とともに漁業,請求権および経済協力,在日韓国人の法的地位および待遇,文化財および文化協力・紛争の解決などに関する協定,交換公文,合意された議事録,議定書・付属書などの全体を言うのである。基本条約の全文は,日本語・韓国語・英語の三つで収録されている。【日韓条約成立の経緯】日韓条約は14年間という長期にわたる交渉のすえ締結されたものである。日韓会談は,そもそも日本と韓国の支配階級の要求から出発して開始されたものと言うよりも,根本的にはアメリカのアジア政策そのものに根ざしたものであった。事実日韓会談は1951年,朝鮮戦争の真っただ中で,占領軍の指示で始まったものである。アメリカは最初の日韓予備会談から,最後の第7次会談に至るまで,表面的にはなるべく姿を出さないようにしながら日韓双方に圧力をかけ指揮監督をしたのであった。日韓会談の始まる時期も,朝鮮戦争が激化し日本に対する講和条約と日米安全保障条約が締結される1951年の秋であった。日韓会談が14年間も長引いた最大の原因は,過去の植民地支配の清算を求める韓国と,朝鮮に対する侵略と植民地支配を正当化させようとした日本側の無反省な態度にあった。日本側が「改悟の色を示さなかった」例は,交渉期間中,随所で見られ交渉難航の要因となった。第3次会談(1953年10月6日〜10月21日)を決裂に追い込んだ日本側代表久保田貫一郎の発言,第4次会談の首席代表沢田廉三の発言などはその典型で,韓国民衆の猛烈な非難を受けた。日韓交渉が長びくなかで,日本側の武器であったのが旧日本人財産請求権であり,一方韓国側の武器が,「李承晩ライン」であった。それも1961年朴正煕軍事政権成立後は,日本を対韓援助の主役に仕立てようとするアメリカの圧力によって交渉妥結が急がれ始めた。ついに朝鮮民衆の猛烈な反対を押し切って,韓国外相李東元が1965年6月22日,日本の首相官邸を訪問し,首相佐藤栄作立ち会いのもとに条約に調印したのである。日韓条約調印後,朴政権はその批准を急ぎ,与党民主共和党だけで日韓条約を一括通過させ,反対する学生デモには軍隊を投入し徹底的に弾圧した。日本でも10月5日,日韓条約を衆参両院の日韓特別委員会において自民党が強行採決した。本会議においても自民党・民社党だけが出席して承認可決された。1951年10月の予備会談開始以来,条約署名までの日韓間の諸会合は,実に1500回にも及んだ。
【条約諸協定の要旨】日韓条約は日韓間の基本関係条約と,そのほかの諸協定より構成されている。日韓間の基本条約は7カ条で構成され,[1]外交領事関係の開設,[2]1910年8月22日の「併合条約」以前の条約および協定が無効であることの確認,[3]日本が韓国政府を朝鮮半島における唯一合法政府であることの確認,[4]両国の国連憲章原則の尊重とそれに基づく両国の協力,[5]貿易・通商関係協定のための交渉開始,[6]民間航空運送にかんする協定交渉の即刻開始,[7]批准書交換の早期実現,などがそれである。そのほかの諸協定には,漁業・請求権と経済協力・在日韓国人の法的地位・文化財返還と文化協力などにかんする諸協定がある。まず日韓漁業協定では,[1]済州島付近の一部海域を除き12海里の専管漁業水域の設定,[2]韓国の専管水域の外側に共同規制水域を設定し,その域内での出漁隻数・漁船の規模などの暫定的漁業規制措置の施行,[3]専管水域外での取締・裁判管轄権を旗国主義とすること,[4]日韓漁業共同委員会の設置,[5]漁業協力の名のもとに日本側から9000万ドルの民間信用供与などにかんする諸条項が規定された。こうして韓国沿岸の豊富な漁場が,日本漁船の自由な活動舞台となった。財産請求権・経済協力協定では,日本側の在韓財産請求権と韓国側の対日請求権をともに放棄する代わりに,日本から韓国に10年間分与する無償3億ドル,年利3. 5%の有償2億ドルの,いわゆる経済協力をすることで35年間の日帝植民地支配を決着してしまった。植民地主義の遺産である在日韓国人の法的地位協定においても,永住権を与えただけでその差別的待遇の改善は見られなかった。文化財・文化協力協定においても,両国の文化関係増進のための協力をうたい,わずかばかりの略奪した美術品の返還が規定されただけである。〔参考文献〕山本剛士「日韓国交正常化」『戦後日本外交史 II 』1983年,三省堂