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●日露戦争 にちろせんそう

アジア 日本 AD1904 明治時代

1904〜1905年に行われた日本とロシアの戦争を言う。ロシアの満州方面への南下政策を阻止し、朝鮮を日本の勢力の下に治めることを目的として行われたが、戦争の結果日本は朝鮮を確保し、満州に向けて積極的に進出した。

【開戦までの経過】明治初年以来、日本は朝鮮に勢力を拡張させる政策をとってきたが、そのことは朝鮮に宗主権を主張している中国(清国)との対立関係をもたらした。日清戦争後の日清講和条約(下関条約)で清国は朝鮮が自主独立国であることを認めたが、その後はロシアの勢力が朝鮮に進出することになった。1896年(明治29)にはロシア軍が京城に入り、前年10月の日本側による閔妃殺害事件に反発した朝鮮国王は、朝鮮駐在のロシア公使館内に逃れ、以後しばらくのあいだ朝鮮国王の政務がロシア公使館の中で執られるという異例の事態も発生した。また北清事変(反政府運動を行っていた義和団勢力が1900年(明治33)に北京の列国公使館区域を包囲し公使館員の安全も脅かされたので、日本を含む列国は共同出兵を行い鎮圧にあたった)の処理のための北京会議最終議定書が1901年(明治34)9月に締結され、列国は撤兵することになったが、ロシアはその後も満州方面に駐留を続けた。その間イギリスは日英同盟の締結を日本に提案し、交渉の末1902年(明治35)1月日英同盟が締結された。日英同盟はロシアの南下政策を阻止するために結ばれたものであり、ロシアは同年4月露清協定を結んで段階的に満州から撤兵することとした。しかし1903年(明治36)4月の第2期満州撤兵期限を前に、ロシアは清国に新たな撤兵条件を提出し、軍隊を増強するなど依然として満州を制圧状態に置き、竜巌浦の租借を要求して朝鮮にも進出する気勢を示した。このようなロシアの南下政策に対して日本は4月21日に伊藤博文・山県有朋の二元老と桂太郎首相・小村寿太郎外相による首脳者会議を開き、これを機会にロシアと交渉し、その際韓国(1897年に朝鮮は国号を大韓帝国と改した)においては日本の優越的地位をロシアに認めさせ絶対に譲歩しないが、満州においてはロシアの優越的な地位を認めてもよい、との方針を決定した。さらに6月23日の御前会議および閣議ではロシアとの交渉方針を決定し、日本側の申し入れによって8月から日露交渉が行われるようになった。この交渉で日本は満州におけるロシアの特殊利益を認めるとともに、ロシアに対しては韓国がロシアの特殊利益範囲外であることや、清・韓両国の独立・領土保全の原則を認めるよう要求したが、ロシアは満州問題は露清間の問題であるとの立場から日本と協議することを拒否し、交渉はしだいに行き詰まった。その間日本ではロシアの南下政策を放置すればロシアは満州から韓国にも進出するであろうし、韓国がロシアの勢力の下に置かれるようになれば日本の存立も脅かされるとして対露強硬論が国内に高まった。この年6月には東京帝国大学の七人の教授が同様の立場からロシアに対する早期開戦を主張する意見書を桂首相に提出し、その後も「七博士」の運動が続けられた。8月には、従来から対露強硬論を唱えていた国民同盟会を改組して、近衛篤麿を会長とする対露同志会が結成されて早期開戦を主張する運動を行った。また陸軍・海軍・外務省の中堅幹部の間にも早期開戦を主張して上層部を突き上げる運動が行われた。非戦論を唱えた幸徳秋水・堺利彦らによる平民社の運動や内村鑑三の反戦論なども行われたが、全体としては少数論だった。政府も交渉継続中に作戦計画を策定し、イタリアで建造中のアルゼンチンの巡洋艦2隻を購入するなど戦闘準備の体制をとった。1904年(明治37)1月13日の日本案に対するロシアの回答がないまま、2月4日の臨時閣議・御前会議で開戦を最終的に決定した。2月6日栗野慎一郎駐露公使は国交断絶をロシアに通告し、8日には日本海軍が旅順港外のロシア艦隊を攻撃し、9日には仁川沖でロシアの軍艦2隻を撃破した。正式の宣戦布告は2月10日に日露両国より行われたが、宣戦の効力は敵対行動の行われた時点に遡って有効とされた。

【戦争の経過】開戦と同時に日本陸軍は仁川に上陸し、迅速に朝鮮(韓国)を制圧し、4月末からは鴨緑江を越えて満州に進撃した。5月末には大連を占領し、8月末からの激しい戦闘のすえ9月4日には遼陽を占領した。8月10日の黄海の海戦では日本海軍はロシア艦隊を破った。また陸軍は8月以降年末までに3度にわたる激戦のすえ203高地を占領したが、これらの戦闘では6万近い死傷者を出した。1905年(明治38)1月には旅順を占領し、3月には奉天において日露両軍の激戦の末日本陸軍がこれを占領したが、この戦闘では日本軍は7万、ロシア軍は6万の死傷者を出すという激しい消耗戦争であった。奉天会戦の後には児玉源太郎満州軍総参謀長は密かに帰国して、政府に早期講和を要請するほどであった。ロシアはヨーロッパからバルチック艦隊を極東に派遣したが、日本の連合艦隊が対馬海峡でこれを捕捉し、5月27〜28日の日本海海戦バルチック艦隊を破った。戦局は日本に有利に進んだが、実際には日本は激しい消耗戦争を余儀なくされて、長期戦を遂行する余力はなく講和の機会を窺っていた。ロシアにおいても1905年1月には帝制支配に対する革命的な蜂起がおこり(「血の日曜日」事件:この間日本の明石元二郎大佐がロシア内部の反政府運動を助長する謀略活動を行った)、ロシアは内部から揺るがせられた。結局日本の派遣した金子堅太郎伯爵の説得もあって、アメリカのルーズヴェルト大統領の斡旋によって、アメリカのポーツマスにおいて講和会議が開かれることになった。なお戦争遂行のために政府は公債発行・戦時特別税の徴集などによって財源を得ようとしたが、さらに外債を発行して戦費に充てることとし、アメリカ・イギリスのほかドイツ・フランスにおいても外債が発行された。

【講和条約の締結】ポーツマス講和会議は8月10日より開始されたが、ロシアは国内に主戦派の勢力が台頭したので領土割譲・賠償のいずれにも応じない強硬な態度をとった。そのため交渉は難航したが、ようやく1905年(明治38)9月5日に日露講和条約(ポーツマス条約)が締結されるに至った。ポーツマス条約の主な内容は次の通りである。[1]韓国における日本の政治・軍事・経済的優越権の承認、必要な場合日本が韓国に対し指導・保護・監理の措置をとり得ることの承認、[2]ロシアの遼東半島租借権(露清間の租借条約(1898)による)ならびに南満州鉄道に関する諸権利の日本への譲渡、ただし清国政府の承認を要する(同年12月22日の満州に関する日清条約で、清国政府は上記の譲渡を承認した)、[3]北緯50度以南の樺太の日本への割譲、[4]北洋水域における日本の漁業権許与の約諾(実際にはこの約諾に基づいて漁業協定が結ばれ、日本の漁業活動が行われた)、[5]新通商航海条約締結までのあいだ相互に最恵国待遇を与える。この条約には賠償条項が含まれていなかったので、これを不満として条約調印に反対する非講和運動がおこり、条約調印と同じ9月5日には日比谷公園で調印に反対する“国民大会”が開かれ、戦争継続を決議した。大会に参加した民衆はさらに内相官邸や交番などの政府機関、条約締結に賛成した新聞社などを襲撃して暴動状態は翌日まで続いた(日比谷焼打事件)。政府は6日戒厳令を施行し、軍隊を動員して鎮圧したが反対運動は全国各地に広まった。

【その後の展開】ポーツマス条約で日本の対韓優位が認められたが、これに先立つ桂-タフト協定(7. 29)・第二次日英同盟(8. 12)でも韓国に対する日本の優越的な地位が承認された。こうした国際的な支持のもとに戦後日本は韓国を保護国化したが、対韓政策はさらに発展して併合(1910)にまで至った。また日本は遼東半島租借権と南満州鉄道に関する権利の譲渡を受けて戦後南満州方面に発展することになり、その後の中国進出の基盤をつくった。


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