●日露協商 にちろきょうしょう
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日清戦争後の朝鮮の独立と内政安定のため,日露両国が常に合意をもって支援することを約した二つの議定書と,日露戦争後,ロシアの対英対日政策の転換を受け,ポーツマス条約(1904)の細目の明確化と日露関係の安定化をはかるため,四次にわたり両者間に結ばれた秘密条款のついた協約。日清戦争後朝鮮は国内が乱れ,乙末の変(1895年10月)や東学党の蜂起(1896年2月)があり,これに乗じてロシアの勢力も強まり日露の対立が激化した。そこで政府は露帝ニコライ2世の戴冠式に特派大使として参列した山県有朋(やまがたありとも)をして,朝鮮問題について協議させた。その結果,日露両国は朝鮮の独立確保と経済財政などについて必要に応じ合意をもって支援することを約し,1896年6月9日山県有朋とロバノフ外相との間で4カ条および秘密条款2カ条から成る議定書に調印が交された。次いで1898年(明治31)4月25日,先の山県・ロバノフ議定書に準拠して3カ条から成る議定書が作成され,西徳二郎外相とローゼン公使の間で調印された。日露戦争後ロシアは英国との協調策に転じ,その政策の一環として日露協商を望んだ。日本においてもロシアの復讐戦を避けるため,また戦後の創痍を回復するため平和の必要を認めた。交渉は1905年(明治38)12月から,本野駐露大使とイズヴォルスキー外相の間で行われ,翌年7月30日調印を見た。同協約は,平和および善隣の関係を強固にし,将来の誤解の原因を除去することを前文とする2カ条と,ほかに4カ条から成る秘密条約が存する。これによって,満州に南北を分かつ分界線を定めて日露の勢力分野を確定した。またロシアは日本と韓国との特殊関係を認め,日本は外蒙古におけるロシアの特殊利益を承認した。1907年(明治41),アメリカ国務卿ノックスは満州鉄道中立案を提案して世界を驚かせたが,これに最も利害をもつ日露両国はその対策について意見を交換したのを契機に,1908年(明治42)7月第二次日露協商を成立させた。前文に第1回日露協約の効果を拡張する趣旨を述べ,第1条において,満州における各自鉄道の連絡整備のため相互に友好的に協力すること,第2条に満州の現状維持,そして第3条に現状を侵害する性質の事件が起きたときは随時商議すると定めた。また別に6カ条から成る秘密協約があり,第1回協約に定めた満州における分界線を再確認するとともに,同じくそれぞれの特殊利益を擁護し防衛することを明記した。1912年(大正1)7月8日本野大使とサゾノフ外相との間に3カ条から成る秘密協約が調印された。辛亥革命(1911)の勃発に伴い外蒙古の独立運動に関連してロシアの活動が顕著となり,その勢力が内蒙古にも及ぶ形勢となったのでその範囲を協定し,将来誤解の原因を予防せんとしたものである。すなわち第1条で内外蒙古の境界を明らかにし,第2条で内蒙古を東西に分かつ境界線(経度線)を設定し,日本はその西,ロシアはその東領域をそれそれ勢力範囲と定めた。1907年以来3回の協商によって日露両国は大いに接近したが,第一次世界大戦の勃発は,さらに日露の接近を促し,1915年(大正5)露国大公の来日は日露同盟の契機となった。同盟協約の交渉は露都において,本野大使とサゾノフ外相との間で行われ同年7月3日調印を了した。同協約は[1]相互に対抗する協定又は連合に加入しないこと,および極東の領土権および特殊利益を侵害されるに至ったときは,相互の支持協力について協議した公開条約2カ条と,[2]第1回及び第2回日露協約の補足として,中国において,両国に対する敵性国の行動を防止すること,および右の結果,戦争にいたるときは相互に援助をなし,単独講和をなさないことを規定した秘密協約から成った。1917年(大正6)3月15日,露国に政体変更があり,前記諸協約は臨時政府に引き継がれた。しかし次いで同年11月8日出現したソヴィエト政府は秘密協定を公表し,破棄した。