●日蓮宗 にちれんしゅう
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日蓮によってはじめられた教団。現在では山梨県身延久遠寺を総本山とする教団をさすが,歴史的には日蓮系の教団を総称して日蓮宗または法華宗と呼んだ。『法華経』を根本経典とする。日蓮は死に先立ち根本の弟子として日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持の六名を指定した。六人は日蓮に随って教えを広めてきた弟子で,この当時すでに直結する弟子や信奉者をもつ者が多く,日蓮没後は有縁の地でそれぞれ教えを広めていった。日昭は鎌倉浜法華寺を,日朗は鎌倉比企谷妙本寺や武蔵池上本門寺を,日興は駿河の富士大石寺や北山本門寺を,日向は身延久遠寺や上総藻原妙光寺をそれぞれ根拠にしていった。日頂と日持ははじめ日興に随ったが後に離れた。日昭の系統を日昭門流・浜門流,日朗のそれを日朗門流・比企谷門流,日興のそれを日興門流・富士門流,日向の系統を日向門流・身延門流と呼び,これに日蓮没後,在家から僧となった日常の下総の若宮法華寺・中山本妙寺(のち両寺合体して中山法華経寺)の日常門流・中山門流が加わり中世日蓮宗を構成し,各門流はそれぞれ独自の展開を見せ統一的な教団を結成していない。日蓮宗ははじめ東国に広まったが,比企谷門流の日像と日静は京都進出を果たし,日像は四条に妙顕寺を,日静は六条に本国寺を創建,その系統を四条門流・六条門流と呼び,有力寺院もつくられたがこの門流から分立する者もあった。根本経典である『法華経』をめぐり,前半(迹門)も後半も同一視する派と本門・(本門)迹門に勝劣の価値判断をする派に分かれ,前者を一致派,後者を勝劣派と呼んだ。分立の原因にこの一致・勝劣の違いもあった。京都日蓮宗は,上層武士や貴族に接近するとともに町衆の信仰を獲得したことは特徴的で,16世紀には一向一揆に対抗するためや町衆の自治を守るため法華一揆が結成されたが,戦国大名や既成教団の連合勢力によって抑圧され一時期京都から追放された。教線は中国・九州にまで延びていった。こうした中世日蓮宗の弘通方法の特色は折伏にあった。折伏とは,人びとの悪をくじき破って導く方法で,日蓮宗では真実の仏教を信奉しない者の誤りをまず破らなければならないとしていた。折伏の一つの表れが宗論であった。しかし,天下統一のため旧来の仏教教団を抑圧しようとした織田信長は,浄土宗と日蓮宗の宗論を行わせ日蓮宗の敗北と断定した。ここにおいて折伏による弘通は,むしろ他者の立場を肯定し穏やかに説得しようとする摂受のそれに転換していく。次いで,豊臣秀吉の時に不受不施・受不施の内訌がおこった。不受不施とは,日蓮宗以外の僧俗の不信者から布施供養を受けず,不信の僧に布施供養をしないことで,権力者の布施供養を受け不信の僧には布施供養しないとするのが受不施である。中世以来,不受不施は日蓮宗の伝統であったが,豊臣秀吉の布施供養の受不受をめぐり,不受を主張する京都妙覚寺日奥はそのため妙覚寺を離れてのち徳川家康にもこれを主張して対馬に流された。さらに徳川家光のときには関東において受不受両派が争い,幕府は不受派を処断,その後もなお不受派は存続したが,17世紀後半弾圧され地下の潜行生活を強いられ,近世日蓮宗は受派一色となった。受不受の対立のなかで身延山久遠寺がリーダーシップを握り,日蓮宗の総帥的位置を獲得していった。一方,近世に入ると興学の機運がおこり,僧侶教育機関として檀林が創設され日蓮遺文や日蓮伝が刊行された。また祖師信仰の表出もさかんで,諸寺で日蓮報恩のため行われる会式や開帳には多くの人が集まった。しかし,近世における本寺末寺制度や寺院と檀家の寺檀制度は僧侶の退廃をもたらし,教団改革の機運が在家信奉者のなかに起こった。幕末に沸騰した宗教的エネルギーはいわゆる民衆宗教を形成したが,長松日扇による仏立講はその一つであった。明治維新期において従来の一致派は日蓮宗を公称することになった。