●日明関係 にちみんかんけい
アジア 日本 AD
明と日本との関係は,明の太祖朱元璋がその建国の翌年の1369年(洪武2・正平24)2月,行人楊載を日本招諭使として大宰府の征西将軍府に赴かせ,その建国を告げさせるとともに倭寇禁圧の要請,ならびに日本の来貢を促したのに始まる。太祖はその後も数回にわたって日本遣使を試み,日本側からも懐良親王・足利義満・島津氏久らが対明遣使をした。太祖は建国当初よりの倭寇跳梁の事実にかんがみ,1371年(洪武4・建徳2)に海禁令を発布し,人民の外国との交通を厳禁したがこの禁令はその後もしばしば繰り返された。1380年(洪武13・天授6)に胡惟庸事件が発生したりして両国関係は悪化し,後には日本は15の不征国の一つに列せられ,したがって太祖の在世中,明・日両国の正式国交はなかった。1383年(洪武16・弘和3)には勘合制度を施行して諸外国の船舶の自由渡航を禁じ,国王の表文を持参したものに限ってその来航を許し,その時期貢期にも制限が加えられた。明の諸国に対する貢期の規定は,朝鮮の一年数貢,琉球の二年一貢を除いて,大てい三年一貢であるが,日本は十年一貢と定められ,これは倭寇問題と無関係ではない。明・日両国の正式国交は1401年(建文3・応永8)に阿祖・肥富一行の渡明によって始められ,足利義満の死(1408・応永15)後,義持によって十余年間中断した。義持の対明断交の理由については従来[1]その父義満の措置に対する不満,[2]倭寇禁圧の不可能,[3]自由貿易の回復をはかるため,などの説があるが,その根本的原因は彼の幕僚の意向,ことに管領斯波義将と大きなかかわりがある。しかし,財政基盤の薄弱な室町幕府はとうてい明と断交し得るものではなく,したがって義時の死後義教が将軍になるとまた貢舶派遣を再開し,これは1549年(嘉靖28・天文18)策彦周良正使のときまで続き,以後は大内義隆がその家臣陶晴賢に襲われ自殺したために途絶えた。日本の対明朝貢貿易は,義満時代を第1期とし,義教以降のものを第2期とするのが定説となっている。第1期においては,政経不分離のもと往来頻繁で,日本の事大思想がきわめて濃厚であった。ことに義満が日本国王と自称し,明の国書および使節に対し慇懃の限りを尽くしたことは後世の批判の的となった。しかし義満のこのような態度は,「明集礼」に定められた属国の王が宗主国に対してとるべき儀礼を行ったにすぎなかった。第2期になると政治的色彩が薄れ日本はひたすら貿易の利を追い,倭寇取り締まりの実もあげず,したがって明側ではこの朝貢に期待するものはもはや何も残っていなかった。しかも明朝は朝貢貿易による出費の増大や貢使たちの乱暴なふるまいに悩まされた。その代表的な例は臨清事件(1454・景秦5)や寧波の乱(1523・嘉靖2)などである。日本の朝貢が途絶えたのち密貿易が盛んになり,明船の日本渡航は明が滅びるまで跡を絶たなかった。また嘉靖の30年代(1522〜1566)は倭寇の跳梁が熾烈を極めたが,まもなく胡宗憲の計略による倭寇首領の捕縛,戚継光らの戦法の進歩による海防の強化,それに日本の統一にしたがって漸次消滅した。ところが豊臣秀吉が1592年(万暦20・文禄1)に無謀な朝鮮侵略戦争を起したため,明は朝鮮の請援に応じて援兵を派遣した。この戦争は前後7年計2回にわたったが,秀吉の死によって日本軍は撤退した。これによって豊臣氏はその滅亡を早め,戦争中終始国内に残って勢力の温存を行い得た徳川家康に日本統一の機会を与えた。一方,明もこの戦争に大軍を派遣したことにより出費が多大となって財政に大きな影響を与え,ついには満州族の入関を早める素因の一つともなった。家康が江戸幕府を組織すると,かつての明との朝貢貿易を復活させようとして種々の努力が試みられたが実らなかった。しかし現実には,この時期における明船の日本渡航はきわめて活発であったから,日本の朝貢貿易の念願は達せなかったとはいえ,明との貿易による経済的目的は達したと言える。明・日両国の正式の国交回復が見られぬ内に1644年(崇禎17)明は滅亡した。〔参考文献〕小葉田淳『中世日支通交貿易史の研究』1969,刀江書院
鄭梁生『明史日本伝正補』1981,文史哲出版社