●日仏協約 にちふつきょうやく
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日露戦争後のアジアに日仏両国がその地位ならびに領土権を保持するため,互いに支持することを約した協約。日露戦争に敗れた露国は疲弊し,これに伴う内政上の危機に直面し,他方極東における日本の活動に不安を深めたので,1906年(明治39)11月28日,駐英露代理大使ポクレウスキーは,英国外相グレーを訪問して極東における安定について英国の協力を申し入れた。翌年3月7日在英露国大使ペンケンドルフはグレーを訪れ,露外相イズヴォルスキーの希望として,日露間に“協商”とまではゆかなくても少なくとも“ある関係”を結ぶことについて英国政府の好意的斡旋を依頼し,グレーはこれに同意した。しかし露国の国内動向としては陸海軍部内をはじめ,世論・新聞の一部には日本との妥協を好まず,国力が回復すればポーツマス条約を破棄すべしとの意見があって,ポーツマス条約が講和後の両国の折衝に譲った細目協定は遅々として捗らず日本政府を悩ませた。他方仏国について見ると,1904年(明治37)以来英国と妥協し,英仏協商へと進むため日英同盟を結んでいる日本との接近を考慮する一方,露国に対しては,露仏同盟を支持するもののそのゆえに露国の極東侵略政策に加担することの愚を悟るようになり,ここでも対日接近を意識させた。かかる立場に立った仏国は,英国同様戦後の日露関係の好転を策するとともに,1907年3月にはパリにおける日本の起債を認めた。これに対し日本政府は多大の満足と感謝の意を表明し,ついで両国間に政治的協定および取り決めを締結するための協議が開始され,同年6月10日両国間に協約の成立を見た。協約は比較的短文で,まず両国間の友好関係を一層強固にし,将来誤解を招く要因を完全に除去することを希望し,そのため本協約を締結するとその目的を明らかにした上で次の通り続いている。〈日本国政府及仏蘭西国政府ハ清国ノ独立及領土保全並清国ニ於テ各国ノ商業,臣民又ハ人民ニ対スル均等待遇ノ主義ヲ尊重スルコトニ同意ナルニ依リ且両締約国カ主権,保護権又ハ占有権ヲ有スル領域ニ近邇セル清帝国ノ諸地方ニ於テ秩序及平和事態ノ確保セラルルコトヲ特ニ顧念スルニ依リ両締約国ノ亜細亜大陸ニ於ケル相互ノ地位竝領土権ヲ保持セムカ為前記諸地方ニ於ケル平和及安寧ヲ確保スルノ目的ニ対シ互ニ相支持スルコトヲ約ス〉。本協約はパリにおいて駐仏栗野特命全権大使と仏国外務大臣ステファン=ピションの間で記名調印された。これは具体的には清国に対する日英同盟の主義を確認したほか,仏国は日露戦争の結果を承認し,また日本は仏領インドシナの仏国領土権の尊重を約したものである。さらに注意すべきことは,本協約の趣旨に立って日仏両国が清国における勢力範囲を確定したことである。すなわち両国は公文交換の形式で,仏国は広東・広西および雲南の三省を特殊利益を有する地域と定め,日本は福建・満州および蒙古を同じ利益を有する地域と定めた。なお林外相は在日仏大使ジェラードに対し,福建省における仏国人の既得権を尊重する旨を声明した。この協約の成立は日露の和解に重大な影響を与えた。既述のごとく,戦後の日露間にはそれぞれの思惑が大きく,とくにこの時点では蒙古問題に関し重大な意見の衝突があって,交渉は一時停頓していたが,本協約の締結はこのような状態を一挙に打開した。すなわち6月13日には,東清鉄道および南満鉄道に関する条約が成立し,7月28日にはオホーツク海およびベーリング海峡の漁業に関する協約が成立,同時に日露通商航海条約および付属書を調印,ついに7月30日にはさらに重要な意義をもつ日露協約の調印を見るに至った。