●日独戦争 にちどくせんそう
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第一次世界大戦における日本とドイツとの戦争。【日本の対ドイツ参戦】1914年(大正3)6月のセルビア人によるオーストリア皇太子夫妻暗殺事件(サライェヴォ事件)が原因で,同年7月オーストリアがセルビアに宣戦すると,8月に入ってドイツがオーストリア側に,ロシア・フランス・イギリスなどがセルビア側に立って参戦し第一次世界大戦の勃発となった。同年8月7日,イギリスは日英同盟に基づき,日本にシナ海のドイツ仮装巡洋艦撃破のためドイツに対する参戦を求めた。同日,日本政府(第二次大隈内閣)は閣議を開き,加藤高明外相が東アジアにおけるドイツ権益を手中に収める好機として参戦論を唱え,閣僚もこれに同調して開戦の方針を決した。イギリスは戦闘行為をイギリス商船保護にのみ限定することを切望していったん参戦要請を取り消したが,日本はこれを断り,日英同盟による全般的利益の擁護を理由に,8月15日,[1]日本およびシナ海方面からのドイツ艦艇の退去または武装解除,[2]膠州湾租借地の中国返還のための日本への引き渡しを一週間の回答期限つきでドイツに要求した。この最後通牒に対し回答がなかったため,1914年8月23日,日本はドイツに対し宣戦を布告した。
【戦局の推移】開戦後直ちに日本海軍はイギリス海軍とともに膠州湾を封鎖し,陸軍は,膠州湾租借地の中心でドイツの重要拠点であった青島攻略のため,9月初め山東省竜口に上陸した。海陸から青島を攻囲した日本軍は9月下旬から攻撃を開始した。11月7日ドイツ軍は降伏し,青島は日本の占領するところとなった。この間に,開戦とともに膠州湾を脱出したドイツ東洋艦隊は,南太平洋の島々を拠点とする一隊とともに,インド洋・南太平洋などで連合国側に対する通商破壊戦に携わった。日本海軍はこれに対抗して10月,ドイツの太平洋における拠点であった南洋諸島を攻撃し占領した。また,日本艦隊の一部は,シンガポールに赴いてイギリス艦隊と共同作戦にあたり,また1916年3月以降,イギリス側の要請でインド洋にも出動した。さらにドイツ潜水艦の活動により,ヨーロッパでの連合国側の船舶の喪失が増加するに伴いイギリスは日本海軍の援助を求め,1917年2月,日本艦隊が地中海に派遣され,マルタ島を基地に船舶護衛の任に当たった。一方,日本政府は,1915年1月中国政府(袁世凱政権)に,日本が占領している膠州湾租借地など山東省のドイツ権益を日本に移譲することを含む対華21カ条要求を提示した。中国側はこれに反対したが,日本政府は強い姿勢で同年5月21カ条要求の大部分を中国側に受諾させた。また日本は,1915年10月イギリス・フランス・ロシアがドイツに対する単独不講和を約束したロンドン宣言(1914年9月)に加入し,連合国の一員としての立場を強化した。第一次世界大戦は,1917年4月アメリカの対ドイツ参戦などによって連合国側の優勢のうちに推移した。ロシア革命によって成立したソヴィエト政府が,1918年3月ドイツと単独講和を結び連合国側から脱落したが,ドイツは戦局を挽回できなかった。
【パリ講和会議】1918年11月11日,ドイツは敗北のうちに連合国側と休戦協定を結び大戦は終結した。連合国側とドイツとの講和会議は,1919年1月18日,33カ国の代表を集めてパリで開かれた。日本は西園寺公望・牧野伸顕らが全権となり,アメリカ・イギリス・フランス・イタリアとともに五大国の一つとしてこれに参加した。講和会議における日本の三大要求は,[1]山東省における旧ドイツ権益を日本が継承すること,[2]赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島を日本が領有すること,[3]設立を予定される国際連盟の規約のなかに人種差別禁止の規定を盛り込むことであった。山東問題については,中国代表の強い反対を押し切って日本の要求が承認され,南洋諸島については国際連盟の委任統治という形で日本の統治が認められた。しかし,人種差別禁止問題に関しては,アメリカ・イギリスなどの反対で日本の提案は採択されなかった。こうして,1919年(大正8)6月28日ヴェルサイユ条約が調印され,同年11月7日日本はこれを批准し,日本とドイツの国交は回復の運びとなった。