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●日独伊三国防共協定 にちどくいさんごくぼうきょうきょうてい

アジア 日本 AD1936 昭和

正式には、1936年(昭和11)11月の共産インターナショナルに対する日独協定に次いで翌年11月日独伊の三国間で調印された議定書。

【協定締結への環境】ソ連は革命後、後押しをしてコミンテルンによる“革命の輸出”を行い、経済五カ年計画を推進し極東の軍備を増強した。共産主義は天皇制の日本と相容れぬため、政府の指導もあって日本は反共国家であった。陸軍は明治以来、範をドイツに求め、ソ連を仮想敵国として戦術・戦略を練ってきた。とくに満州事変後、広くソ連と国境を接するようになり、ソ連極東軍の増強と、軍縮を強いられた陸軍は危機感を深めていた。外交面で日本は、満州事変を機に1933年(昭和8)国際連盟、翌年、ワシントン海軍軍縮条約を、1936年(昭和11)ロンドン軍縮会議も脱退して“世界の孤児”となった。経済面では昭和恐慌以降、世界的な慢性不況が続き米英仏諸国は広域経済圏を設定する。資源・植民地・市場をもたぬ日独伊は、ヴェルサイユ体制打破・世界再分割を求める。ここに“持たざる国”後進資本主義国はファッショ化し、後進資本主義国の提携の兆しが生ずる。

【協定締結の経過】1935年(昭和10)7月、コミンテルン第7回大会は、とくに日本・ドイツの世界再分割の野心を指摘、それに対する反対闘争を世界の共産主義者に指示した。外務省は、これらの事情から反共を掲げることによって英米仏と国交を調整し、国際的孤立から脱出しようとした。これが1936年1月の広田三原則(日華国交調整と防共外交)である。その前年、駐独大使館陸軍武官大島浩は、ナチスの外交部長格リッペントロップと、反共的協定・日独提携強化の可能性について打診を交わした。可能性ありとみた大島は参謀本部に通報する。参謀本部は若松只一中佐をドイツに派遣、リッペントロップやブロンベルグ国防相と会見させ、陸軍の意向を伝える。このように交渉の初期は、外務省・駐独大使の頭越しに大島武官と陸軍によって事を運んだ。その後、有田八郎外相・武者小路公共駐独大使も反共的協定に賛成であったので、交渉は外務省に移され、武者小路大使がドイツ案を基礎に折衝にあたった。1936年10月、仮調印が済み、11月25日、枢密院本会議で可決、同日、ベルリンで武者小路大使とリッペントロップの間で正式調印が行われた。

【協定の内容】防共協定は本文・付属議定書・秘密付属協定および関係交換公文から成っている。本文第1条では、共産インターナショナルの活動についての相互通報・防衛措置に対する協議、第2条で第三国へ、協定への参加・勧誘を規定している。秘密付属協定は第1条で、締約国の一方がソ連より攻撃または脅威を受けたとき、他の締約国はソ連に利益にならぬようにする。さらに第2条で本協定の精神と両立しない一切の政治的条約をソ連と締結しない、と定めた。

【イタリアの参加】日本は協定第2条によって、まずイギリスを勧誘し、イギリスとの関係改善を図ったが、イギリスはかえって日独伊三国の提携を警戒したので挫折した。次いでオランダにも働きかけたが、オランダは協定が政治的性質を帯びやすいと躊躇したので工作は失敗した。イタリアのファシスト党は元来が反共であり、当時、イタリアはエチオピア侵略により国際連盟から経済制裁を受けていた。そこでイギリスに対抗するために日独に接近しようとしていた。日独防共協定が締結されるとムッソリーニ首相は協定参加を申し入れた。三国は1937年(昭和12)11月、議定書に調印してイタリアを加えた。

【協定の意義】協定によって国際共産主義の活動を封じ、ソ連に対する軍事的圧力の効果をねらったもので、これにより三国枢軸ブロックが成立、のち三国同盟へと発展した。

〔参考文献〕大畑篤四郎「日独防共協定・同強化問題」太平洋戦争への道5、1963、朝日新聞社

植田捷雄「日独伊三国同盟太平洋戦争原因論1953、日本外交学会

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