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●日独伊三国軍事同盟 にちどくいさんごくぐんじどうめい

アジア 日本 AD1940 昭和

 1940年(昭和15)9月27日,日本・ドイツ・イタリア,三国により締結された軍事同盟。

防共協定強化の動き】1937年(昭和12)の日独伊防共協定の締結によって“持たざる国”の枢軸ブロックが成立した。この後ヒトラーは,その世界戦略からイギリスに対抗する目的で,アジアのイギリス勢力を弱めソ連にも対抗することを日本に,期待した。1938年(昭和13)ドイツのリッペントロップ外相は,三国の提携強化のため協力を軍事的な相互援助にエスカレートさせ,協定の対象をソ連以外にも拡大することを提案してきた。この提案に陸軍は賛成したが外務省は協定の対象拡大に躊躇した。同年8月,第一次近衛文麿内閣の五相会議で,日本は英米を当面の敵としないこと,軍事援助義務は〈直ちに協議に入る〉程度とし,自動的参戦の義務は回避することにした。しかし,陸軍・海軍・外務省などの意見が統一できなかった。この強化問題は,近衛内閣の後継,平沼騏一郎内閣の五相会議でも英仏を協定の対象にし,ドイツがアメリカと開戦の場合日本は軍事援助を行うというドイツの希望と陸軍を支持,それに対して外務省・海軍は,ドイツの開戦により日本が自動的に参戦になるのを懸念して協定強化はまとまらず,平沼・阿部・米内の諸内閣は退陣した。

【同盟締結へ】第二次世界大戦でドイツが欧州を席巻すると,国内にも,ドイツの戦果に眩惑されてアジアに日本の勢力圏をたてるべきであるという風潮が強くなった。1940年(昭和15)フランス・オランダがドイツに屈服すると,アジアにあった仏領インド・蘭領インドの処理も問題となり,折から高まった南進論が三国提携論を推し進めた。同年7月,第二次近衛内閣枢軸国との関係強化・南進を重要国策と定め,松岡洋右外相は英米に対抗する強硬路線をとる。同年9月,ドイツはスターマー特使を日本に派遣して松岡外相と会談させた。この会談で日独の提携強化を“対米軍事同盟”とし,アメリカの大戦参戦を防ごうとした。同盟案には海軍側の主張を容れて,日本が参戦への自主的判断の保持を付属議定書・交換公文に規定することになった。松岡外相は三国同盟審議の御前会議の席上で,三国同盟は日本の力の誇示と,アメリカの日本に対する圧迫を挫折させ,アメリカの大戦参戦と日米開戦を回避させるため,と説明した。このように,防共協定強化から始まった日独提携問題は,日本側のアメリカとの関係悪化を怖れて円滑に運ばなかった。しかし,ドイツの戦勝と日本の南進論の台頭による政策転換がありようやく妥協に至り,9月27日ベルリンで三国同盟は調印された。

【同盟の内容】第1・2条は,“独・伊の欧州における新秩序の指導的地位を,日本が認め,独・伊は東亜における日本の新秩序の指導的地位を認める”というもので,ヴェルサイユ体制を否定し,枢軸国による世界再分割を確認した。第3条では,三国が大戦・日中戦争に参戦していない国から攻撃を受けた場合,三国はあらゆる相互援助を行う。これはアメリカ参戦の抑止力と考えた。

【同盟締結の結果】締結時の日本首脳は,南進政策をとることによってアメリカへの戦争抑止力になると判断していた。しかし,一部で危惧していたように,同盟はアメリカを刺激し挑戦と受けとめられアメリカは対日強硬策に転ずる。アメリカは国民党政府へ新たに1億ドルの借款を与え,ABCD 包囲陣による南進への圧迫・対日輸出規制・海軍の太平洋増強などを行い,日米関係は悪化の一途をたどった。太平洋戦争直前の日米交渉でもアメリカは日本に同盟の破棄を迫り,交渉を阻害させる大きい要因となる。同盟を戦争抑止力と願ったのが,反対に戦争を促進させることになった。

〔参考文献〕細谷千博「三国同盟と日ソ中立条約太平洋戦争への道5,1963,朝日新聞社

外務省百年史編纂委員会・『外務省の百年』下,1969,原書房