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●日元関係 にちげんかんけい

アジア 日本 AD 

 元と日本との公的交渉は,元の世祖忽必烈(フビライ)が1266年(南宋咸淳2・蒙古至元3・文永3)に兵部侍郎黒的・礼部侍郎殷弘を日本招諭使とし,高麗の元宗(順孝王)に世祖の命を伝えて贊導の任を要請し,元宗が枢密院副使宋君斐・御史金嚮らをして黒的一行とともに日本に赴かしめ,その翌年,高麗の播阜が九州に渡航したことによって開始された。世祖はその後数回の遣使を行い,趙良弼らが日本に渡ったが日本の返牒を得ることができなかったばかりではなく,かえって使者杜世忠らが鎌倉で斬られるなど日本招諭の目的を達することができなかった。世祖は日本に使者を派遣する一方で東征を企て,高麗に屯田しかつ元宗に戦艦造営の命を下した。世祖の日本東征の目的については従来[1]世祖は対日貿易の利を知ってその朝貢を欲した。[2]己の富を増大させるため,単純に土地を征服し,物質略奪を行おうとした。[3]世祖の征服欲,などの説があるが,世祖がその東征前に数回にわたって遣使したこと,それに当時の東アジア世界の情勢などより見て,彼の日本東征の原因の一つとして,その南宋征伐に際し,従来南宋と通商関係にある日本の南宋援助を慮ったことと深い関連があることは見逃せない。世祖は前後2回にわたって東征の大軍を派遣し,高麗にも助征軍の派遣を命じて壱岐・対馬および九州北部の沿岸地方を攻撃した。東征軍は陸・海の戦いにおいていくたの戦果をあげており,それにもかかわらずいずれも不慮の自然現象である暴風にあって失敗した。一方,日本においては,異国襲来のためその防衛戦に伴う防塁構築など異国警固番役にたずさわった西国の御家人たちが,人員の損傷や経済的負担の過重によって疲弊した。しかも鎌倉幕府は,外敵の襲来であるために内乱のごとく事後処理のように勲功ある武士に論功行賞をすることができなかった。したがって幕府は勲功をあげた武士の不満をかい,国を救いながら自らの滅亡を早めるという結果になった。その後,世祖はいぜんとして東征の意をもち,第三征を企てあるいは中止したりしたが,その死(1294)によって三征の議は止んだ。元・日両国の関係は世祖の東征前後緊迫したにもかかわらず,民間の往来は,東征期間の何年かを除いていぜんとして続けられていた。鎌倉幕府は1325年(泰定2・正中2)に建長寺船を,室町幕府は1341年(至正1・暦応4)に天竜寺船を派遣している。したがって,元・日両国の関係は世祖の東征によって悪化したと単純には言えない。しかし,日本は弘安の役辛巳の役)後における国民の進取の精神および対外貿易の意欲の高揚などによって,その商船は朝鮮半島からしだいに中国の沿岸にまで往来するようになった。のみならず,従来半島で跳梁していた倭寇も漸次その寇掠の目標を中国の沿岸地方に移したから,元当局は警戒の目を光らせ日本の商船に対して種々の制限を加えるに至った。この時期における両国民衆の交流は,商人を除けば僧侶の往来が頻繁で,それらの僧侶の手により中国の書籍が大量に日本に輸入され,中国名僧の東渡や禅林文学の東伝とあいまって日本五山文学が開花した。そして,中国式版本たる五山版の刊行が隆盛を極め,後世の書肆もこの時期にめばえた。五山版の刊行には元末に東渡した中国人の刻工の功績が見逃せない。また,朱熹の『四書集註』の東伝により日本の朱子学はしだいに発展し,江戸時代に入るとついに官学となって,二百余年の間幕府の文教政策の基となった。また,中国禅林で行われた頂相画や水墨画の伝来は,日本の絵画界に肖像画制作の気風をもたらすとともに,従来の大和絵とは別に水墨画の出現を見た。そして禅宗の東伝は教理教相以外に,1日3食や喫茶の習慣を漸次日本人の間に広め,住宅建築の様式にも変化がおこって四畳半の部屋がつくられるなど,日本人の日常生活に大きな影響を与え今日にまで及んでいる。

〔参考文献〕相田二郎『蒙古襲来の研究』1958,吉川弘文館

川添昭二『蒙古襲来研究史論』1977,雄山閣

魏栄吉『中国・日本・高麗三国関係史の研究』近刊,教育出版センター