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●日英同盟 にちえいどうめい

アジア 日本 AD 

 1902年(明治35年)1月30日,日本とイギリスとの間に結ばれた攻守同盟条約。日清戦争後,諸列強の世界政策は敗れた中国に集中した。そのなかで,フランスの支持を得たロシアの満州に対する野心は露骨となり,義和団の乱を利用し北京から撤兵した軍隊をもって満州の占領に乗り出した。これに対し,イギリスはドイツと協商してロシアを抑えようとし,1900年(明治33)10月,いわゆる揚子江協定を成立させ,後に日本もこれに参加した。このころ,第二次露清密約の存在が暴露され,日本・イギリス・ドイツ・アメリカは,清国にかかる条約に調印しないよう勧告した。さらに日・英両国はロシアに抗議した。これより先,ドイツは揚子江協定は満州に適用されない旨を明らかにして,日・英の対露抗議に同調しなかった。また当時イギリスはボーア戦争のため余裕がなく,日本は独力で対露抗議を行うことになり,1901年(明治34)6月第二次抗議を行った。これに対しロシアは露清密約中止の通牒を送ってきた。英外相ランスダウンは日本の実力を評価しその極東政策のなかに日本との同盟の必要性を認めるが,イギリスが伝統とする〈光栄ある孤立〉に訣別して日英同盟に踏み切った動機は,1901年9月セルボーン海相が,海軍政策の面から日英同盟の必要を強調した〈極東における海軍政策〉であった。この間,在英ドイツ大使エッカードスタインは英独同盟を促進する見地から日本の同盟参加を日・英両国に働きかけた。かくて1901年10月林公使と英外相との間に本格的交渉が行われ,同年11月6日ランスダウンは条約草案を林公使に手交した。日本国内には,日英同盟に対抗する有力な主張として日露協商論があった。その主論者伊藤博文はペテルブルグを訪れてその所信の実現をはかったが満足な反応を得られなかった。しかしそれでも彼は初志を貫こうとしたが,これに対し日英同盟をとるべきであるとする小村外相の外交判断は桂首相はじめ閣僚および山県有朋・加藤高明らによって支持され,1902年(明治35)1月30日同盟の締結を見るに至った。条約の内容は全6条と付属交換公文1篇から成る。条約の骨子は,イギリスにとっては主として清国における,日本にとっては韓国と清国における利益を擁護するため相互援助を約し(第1条),さらに締約国の一方が二国以上と戦うときは,ほかの締約国は参戦義務を負う(第2条)と定めた。したがって万一日本が戦争するに至った場合,第三国が日本の相手国を援助し,あるいは加担する行為を大英帝国が厳に監視することになる。そのイギリスは依然として世界第一の富力と海軍力を保有する大国であり,しかも付属協定によってその優勢な海軍力を随時極東に集結する態勢をとるというのであるから,そのにらみは全世界に利くのである。これによって日本は,ある一国だけを相手取って戦い得る態勢ができたのである。それはまさに日本海軍にとっては百万の味方を得たに等しい。果たせるかなそれから二年後に起きた日露戦争に事実となって表れるのである。条約の効果は海軍ばかりではない。日本国民に大きな自信を与え,同時に日本の国威を世界に向かって誇示する結果にもなった。日英同盟の発表に対し,ロシアは衝撃を受け不満と不安を感じた。そしてドイツ・フランスを誘ってこれに反対する共同宣言を行おうと試みたが,ドイツはこれを拒絶したので,フランスとだけ3月16日共同して宣言した。1905年(明治38)8月,日露戦争後の情勢を受けて改訂された。その要点は,イギリスが日本に朝鮮を保障するとともに,同盟の及ぶ範囲をインドを含む東南アジア一帯に拡げたことである。これは主にロシアの報復に備えたものであったが,日露戦争後の極東の情勢は,むしろ米・英の中国市場への進出に対抗して,日・露が接近する傾向にあった。1911年(明治44)7月,日英同盟は再び改訂され,締約国と仲裁裁判条約を結んでいる第三国に対しては参戦義務を免除した。1914年(大正3),第一次世界大戦に際し,日本はこの同盟の参戦義務遵守を名目として参戦した。大戦後のワシントン会議において,1921年(大正10)12月13日,日本,イギリス・アメリカ・フランスの間に成立した四カ国条約の発効に伴い,日英同盟は翌年8月に廃棄された。