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●ニーチェ

ヨーロッパ ドイツ連邦共和国 AD1844 ドイツ連邦

 1844〜1900 ドイツの哲学者。プロシアのザクセン州のレッケンに生まれた。祖父も父もルター派の牧師,母方も牧師の家系。ボン大学とライプチヒ大学で,リッチルについて古典文献学(ギリシア・ラテンの古典の原典研究)を専攻。1869年スイスのバーゼル大学から古典文献学の教授として招かれる。リッチルは彼の学問を高く評価し,論文も試問も課すことなく学位を与えた。ニーチェはまだ24歳であった。バーゼルに赴任した彼は,リヒアルト=ワグナーと親しく交わるようになる。1872年『悲劇の誕生』が世に問われた。古代ギリシアの悲劇が節度・調和を重んずる“アポロ的”要素と,非合理的・情熱的な要素,“ディオニュソス的”なものとの融合によって生まれたものであることを主張する。『悲劇の誕生』に対する,学界の反響は冷たいものであった。その後の数年間『反時代的考察』(1873〜1876),『人間的,余りに人間的』(1878〜1880)を出版。この間ワグナーと訣別し,またたびたび健康を害し,1879年には大学を退いている。その後の10年間は視力の衰えや激しい頭痛に悩まされながら著作に打ち込む年月が続いた。その多くはスイスのエンガディン地方のシルス=マリア・南フランスのニース・北イタリアの諸都市で書かれている。『曙光』・『たのしい知識』に続いて,『ツァラトゥストゥラ』が1883年から書き始められた。この書はツァラトゥストゥラの,“超人”“生の肯定”“永劫回帰”の思想によって,彼の著書のうちで最もよく知られたものとなる。その後,『善悪の彼岸』(1886)・『道徳の系譜学』(1887)を出版。1888年には『この人を見よ』ほか,数点の作を完成するという活動の高まりを示した。1889年1月,ニーチェは北イタリアのトリノの街路上で倒れた。バーゼルに連れ帰られた彼は精神病院に入れられ,次いでイエナに移され,翌年からはナウムブルクで母の看護を受け母の死後はワイマールに移された。死までの11年間,著作も会話も不可能であった。

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