●西ローマ帝国 にしローマていこく
AD395
395〜476 395年,テオドシウス1世の死後ローマ帝国が東西に分割されてできた西部の帝国。395年テオドシウス帝死後,ローマ帝国はその長子アルカディウスがコンスタンティノープルを首都として東部を,弟ホノリウスがローマを首都として(402年以降ラヴェンナ)西部を統治することになり,これ以後476年に西ローマ帝国が滅亡するまで永久に統一されることがなかった。帝国分裂後,東ローマ帝国は1453年オスマン=トルコによって滅ぼされるまでオリエント化の傾向を強めながら存続し,西ローマ帝国は内部にゲルマン諸王国を抱え,ローマ風・ゲルマン風社会を形成しながら中世世界へと移行していった。もちろん東・西両ローマ帝国に分裂したとはいえ,法理論上は一つの帝国を二人の同権の皇帝が分掌して統治しているのであって,ローマ帝国統一性の理念は残っていた。しかし分裂後は,東ローマ帝国のほうが優位に立ち,西ローマ皇帝は東ローマ皇帝による帝位の承認を必要とした。西ローマ帝国は,375年に始まったゲルマン民族の大移動により諸部族の侵入を受け,皇帝権はしだいに衰微してゲルマン出身の傭兵隊長の勢力が大きくなった。まず403年,アラリックに率いられた西ゴート族は,ヴェローナの戦いでローマの将軍スティリコに敗れイタリア侵入を阻止された。しかし,408年再度イタリアに侵入し,410年永遠の都と謳われた都市ローマを占領,3日間にわたって荒掠した後,ホノリウス帝の異母妹ガラ=プラキディアを奪ってガリアに移動し南ガリア・スペインに西ゴート王国を建設した。同じころヴァンダル族がアラン族・スウェビ族とともにガリアに侵入(406),スペインを経てアフリカに渡りヴァンダル王国を建設し,一時西地中海を制した(429)。その他ブルグント族がローヌ・ソーヌ地方に建国するなど,西ローマ皇帝の直接の統治下にあるのはイタリアとガリアの一部にすぎない状態であった。政治面では,スティリコ・アエティウス・リキメルらの軍指揮官が実権を握り皇帝を廃立した。こうした混乱のなかで,473年,近衛隊長グリケリウスがリキメルの甥でプルグント出のグンドバードの支持によって皇帝となったが,東ローマ皇帝レオンはこれを認めずネポスを西ローマ皇帝とした(在位473〜475)。しかし,ネポスが軍司令官に任命したオレステスはネポス帝を廃位し,自分の息子で6歳のロムルス=アウグストゥルスを帝位につけた(在位475〜476)。ところが,オレステスの軍隊が同盟者としてのイタリア定住と土地の3分の1を要求した。オレステスが軍隊の要求を拒否したため,傭兵隊長オドアケルは476年叛乱をおこし,西ローマ帝国の最後の皇帝となったロムルス=アウグストゥルスを廃位し,ここに西ローマ帝国は滅亡した。オドアケルは新たな皇帝は擁立せず,帝位と帝冠を東ローマ皇帝に返上してパトリキウスに任命され,イタリアを統治することになった。西ローマ帝国滅亡後は東ローマ皇帝がローマ帝国の正統な継承者と称した。西ローマ帝国の滅亡の時期については,オレステスによって追放されたとはいえ東ローマ皇帝によって擁立された正統帝であるネポス帝の死(480)をもって西ローマ帝国の滅亡とする者もいる。また800年のフランク国王カール大帝戴冠によって復興されたとされる“西ローマ帝国”は,まったく異質のものと言えよう。〔参考文献〕ウォールバンク,吉村忠典訳『ローマ帝国衰亡史』1963,岩波書店
弓削達『末期ローマ帝国の体制』(岩波講座『世界歴史』第7巻)1969,岩波書店