●20世紀の美術 にじっせいきのびじゅつ
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美術史上,ルネサンスに始まるとされる近世は,印象派の出発をもって近代に入るとされる。その後に続く現代をいつからとするかは時代とともに後退するであろう。現在では,この近代と現代の美術をまとめてモダン=アートと呼ぶ向きもあるが,第二次大戦後のより今日的な傾向を現代美術,またはコンテンポラリー=アート(当代の美術)と言うこともある。ここでは,より明確な時代区分として,今世紀の初頭から1980年代までをまとめ,“20世紀の美術”として採っておく。近代の後期から,現代および今日に至るまでとなる。さらにこれを,大まかに第二次大戦までの“前期”と大戦後の“後期”に分けておく。前期は19世紀を引き継ぎ,さまざまな主義や派が消長する“イズムの時代”の延長にある。それに対し戦後は,主としてメディアの名にアートを付していうことが多い。後期は“アートの時代”と呼んでよいだろう。【背景】近代になって成立した“美術”は,18世紀後半の新古典主義を頂点として,しだいに様相を転じていく。19世紀の初めには早くもロマン主義が台頭して,真善美の規範に則り調和と均整のとれた唯一絶対の理想美を標榜していた新古典主義に反旗をひるがえす。彼らは,理性よりも感情を,客観性よりも個性を,永遠性よりも時代の動勢を重んじ,生硬な大理石像に代えて多彩な色を用い流動的に画面を埋めようとした。また,人間一人一人の感受性を尊重し,模倣を排して創造性を鼓吹し,他人とは違う独創性が主張されたのであった。個性尊重に基づく見解の開陳という意味では,20世紀の美術も,19世紀ロマン主義の延長あるいはその末裔であると言える。こうした変化の背景には,当時のヨーロッパ,とりわけ“美術”の中心であったフランスにおける社会の変革があったことを挙げておかなくてはなるまい。時代は,統一的王制から市民の階層に移り,さまざまな主義主張や党派が乱立したのであった。そうなれば,“美術”もまたその統一性を失い,見解の相違によって異なるものとなるのも仕方ない。万人に共通のものではないとなれば,わからないと不審がる人たちが現れるのも当然のこととなる。
いま一つ,“美術”の変革を招いた要因として,写真技術の普及があげられる。19世紀半ばに開発されたこの技術は,やがて広まるにつれ画家たちに深刻な問題を投げかける。肖像画で生計を得ていた画家たちはこれを禁止せよと政府に嘆願し新古典主義者は写真を否認した。が,ロマン主義者たちは即興の描写のために,次の写実主義者たちは現実再現の手段としてこれを利用した。19世紀後半の印象主義者たちは,現実を克明に写し撮る写真に対抗して絵画に何が可能かを問い始める。そして,当時の白黒写真にはなかった色彩をふんだんに用い,きめ細かな写真の画質とは異なる大まかなタッチで外光を即時的に写し取ろうと試みた。その結果,色彩は分割され形の輪郭はぼやけ,抽象画かと見紛うものになってしまった。写真はまた,従来にない視覚世界を拓いたものでもあった。瞬間の定着に限らず,レンズを通しての拡大・縮小,写真製版による印刷・複写・量産,さらには映画の発明による動的世界の再生などである。
写真に代表される科学の眼は,19世紀が美術の時代,芸術は偉大であり少なくとも美が信じられていた時代であったのに対し,20世紀は科学の時代と言われるほどの大きな転換をもたらす。科学的には証明され得ない美に疑いがもたれ,美が多様化してその中心を喪失しついにその終焉を迎えると言われるほどの混乱の様相を呈することになる。そして,美に代わって,リアリティの探求に向かうのが20世紀の美術あるいは芸術の主題となる。そこで,“美術”という語はそぐい難くなり,それを“芸術”ということばでくくったりしている。こうした芸術におけるリアリティの探求は,現代科学の発展が契機になっていることは否めない。もっとも,その科学的事実にさえも疑念を抱き始めているのが20世紀なのである。
【前期】19世紀末から20世紀初頭にかけて,いわゆる世紀末様式がヨーロッパを風靡した。いみじくもアール=ヌーボー(新芸術)と呼ばれたそれは,新たな時代へ向けての胎動と言える。サロンのアカデミズムに反抗し,写真館で第1回のアンデパンダン展を開いた印象主義も,科学的実証主義に基づく自然再現の正確な技法としてすでにアカデミズム世界に受け入れられていた。だが,その外観を重んじる理性の眼に飽き足らない芸術家たちは,眼に見えない内面の世界に探求の眼を向け始めていたのである。この外観と内面の抗争は,今世紀の美術において二つの大きな潮流を形づくることになる。
世紀末において,印象主義の影響下にありながら主観的な情念を激しく燃えあがらせ20世紀を待たずして自殺したゴッホ(1853〜1890),ロマン主義の色彩を受け継ぎ耽美的に神秘世界を築き多くの後進を育てたモロー(1826〜1898)らは,その一つの潮流の源と見なせよう。ゴッホの情念はその同志ゴーギャン(1848〜1906)を盟主とするナビ派を通じて,モローからはマチス(1869〜1954)やルオー(1871〜1958)の装飾的な象徴主義や,ルドン(1840〜1916)のような神秘的な幻想画家が現れた。この内面に向けられた眼は,やがてはっきりとした主張となる。1905年,フランスでフォーヴィスムが,ドイツには表現主義がおこった。野獣と評されたマチスたちの運動は,色彩は人間の内的生命の表れであり,絵画とは色によって覆われた平坦な面に他ならないとする色彩解放の革命でもあった。彼らが南欧の明るい色彩によってある一定の秩序を求めていたころ,北ではドレスデンにおいて,あらゆる革新的な要素の間の橋渡しをするという意図のもとにブリュッケ(橋)=グループが誕生していた。それは,ベルリンのシュトルム(嵐)へ,さらにロシア人のカンディンスキー(1866〜1944)を盟主とするミュンヘンの新芸術家同盟,そしてブラウエ=ライター(青騎士)=グループに受け継がれて,表現主義を形成する。その主張は,カンディンスキーの宣言書ともいうべき『芸術における精神的なもの』(1910)にまとめられている。ところで,彼らの唱える“表現”とは,本来,中のものを外へ押し出すということで,外のものがなかに押し入るという意味の“印象”を意識して名付けられたことは明白である。この“印象”から“表現”への転換はそのまま,外界を再現・描写する“美術”から人間の内面を表現する“芸術”へ流れが変わったことを意味しよう。それはまた,ヨーロッパにおける民族の資質の違いの表れとみなすことができる。すなわち,外観に頼るラテン系の art(アート)と,内奥を重くみるゲルマン系の Kunst(クンスト)との違いというふうに見なすことができる。
北の嵐が吹き荒れていたころ,南ではピカソ(1881〜1973)が,奇妙な絵を描いて,とうとう気が狂ったと噂されていた。だがもちろん彼は正気で,〈自然を球と円錘と円筒として扱う〉と言明した印象派のセザンヌ(1838〜1906)の提言を受け継ぎ,自然の対象を単純化して基本的な形体に集約しようと努力していたのである。後にキュビスム(立体主義)と名づけられる彼の絵は,従来の固定的な透視法に則った空間表現を打ち壊し,多角的な視点を画面に導入しようとする試みであった。またブラック(1882〜1963)らとともに,パピエ=コレ(貼付け)の手法を画面にもち込み,再現描写の域から絵画を解放した。彼らは,感覚的に色彩を扱ってきた流れに対し,対象の形態を徹底的に分解し,それを画面の上で再構成するという理知的な造形の立場を推進したのである。
キュビスムは,本来,動的であるはずの多角的な視点を,静止画面のなかに構築しようとした点で矛盾があった。イタリア人のマリネッティ(1876〜1944)が1909年にフランスの新聞に掲載した『未来派創立宣言』を契機として発足した未来主義は,まさにその問題をとり上げた。彼らは,その名称を動力主義と名づけようと考えたほどだったから,動く形態を何とかとらえようとして写真の多重露光法をまねたりしている。そればかりでなく,数十もの宣言文を饒舌に発して,絵画・彫刻はもちろんのこと,文学・音楽などあらゆる芸術分野の革新を唱えた。その主張は必ずしも実行されたわけではないが,芸術そのものが社会の動きとともにあることを知らしめた点で意義ある運動であった。イタリアの未来派はファシズムの台頭という社会的な動きのなかで霧散してしまったものの,ヨーロッパ北端のロシアに波及し,革命前夜の昂揚した雰囲気のなかで政治の前衛と結びついてラジカルな芸術運動を誘発する。当時,旧弊なアカデミズムから脱しようと模索していたロシアの若い芸術家たちは,未来志向においてマリネッティに共鳴しながらも,東方的民族感情に立って西欧から自分たちを区別しようとしていた。やがてそれは,ラリオノフ(1881〜1964)のキュビスムと未来派の折衷とも言えるレイヨニスム(光線主義)を経て,たちまちのうちにマレーヴィッチ(1878〜1935)のシュプレマティスム(至高主義)に到達する。彼は,後年まとめた『非対象世界』のなかで,〈対象の無用な重みから芸術を解放する〉と述べており,このためあらゆる視覚的対象を排除し,純粋な抽象形態による新しいレアリズムを主張したのだった。その感化を受けたタトリン(1885〜1958),ロドチェンコ(1891〜1956),ガボ(1889〜1977)らの構成主義者たちは,その造形対象を現実空間における現実的物質にまで広げる。すなわち,従来もっぱら個人の感情表現のために用いられてきた絵の具や大理石を廃し,日常生活に密着した金属・ガラスなどの物質的素材を新たに取り入れて,絵画・彫刻のみならず建築・工芸・舞台・デザインなど現実の環境における造形的実験を試みた。これは単に技法上の冒険にとどまらず芸術を質的に転換させようとする前衛的な運動だったのである。構成主義者たちはソビエト=ロシアのなかで,一時,芸術行政の中枢を占めたが,革命が達成されるや社会主義リアリズムに取って代わられ崩壊した。
一方,立体派から出発したオランダ人のモンドリアン(1872〜1940)は,自然の対象を分析し追求しているうちに,その奥底にひそむ構成原理を見出し,ついには神秘主義的宇宙観に結びついた抽象に到達する。1917年には,同僚のドースブルグ(1883〜1931)らとともに「デ=スティール」誌を刊行し,新造形主義を唱導した。彼らの造形思考は,ロシアを追われた構成主義者のそれとともに,1919年に建築家のグロピウス(1883〜1969)がワイマールに設立したバウハウスに流れ込み,その教育成果が近代デザインの発展に決定的な影響を及ぼすことになる。これら幾何学的な形体の“冷たい”抽象とは対照的に,流動的に色彩を扱うカンディンスキーたちの仕事を“熱い”抽象と呼ぶことがある。もっとも彼は,“抽象”ということばは曖昧であるから,ドースブルグが提案した“具体”という方がふさわしいしさらによりよい名称は“実在”であろうと述べている。“抽象”とは本来,“物質性からの解放”のことであり,その意味では芸術はすべからく“抽象”であるからだ。いずれにしても,“実在”を求める“抽象”が,主に北方の思索的な人たちによって形成されたことは興味深い。その他,機械への讃美を楽天的に描いたレジェ(1881〜1955),機械のように純粋で厳格な芸術をつくることを目的として,1918年にピュリスム(=純粋主義)を唱えたオザンファン(1886〜1966)とジャンヌレ(建築家のル=コルビジェ1887〜1965)らの仕事は,対象を失っていないという意味で半具象などと言われる。
第一次世界大戦は,恐るべき破壊の爪跡を各地に残すと同時に,より以上に科学文明の万能を信じてきた西欧の知識人たちの精神に大きな衝撃を与えた。その大戦の最中の1916年に中立国スイスに逃れてきたルーマニアの詩人ツァラ(1876〜1963),ドイツ系のアルプ(1887〜1966)らによって結成されたダダイスムは,荒廃が産み落した鬼っ子といえるだろう。虚無的な世情を反映して彼らは,理性を蔑視し反合理・反美・反道徳を唱え,一切の伝統・権力・思想・芸術形式を否定し破壊を主張した。その動きはたちまちベルリンやケルンにも波及し,大西洋を越えてニューヨークにまで飛火した。ドイツ生まれのスティーグリッツ(1864〜1946)が五番街に開いた画廊「291」を拠点に,ピカビア(1879〜1953),デュシャン(1887〜1968),レイ(1890〜1976)らは,アメリカ社会に代表される近代機械文明によってもたらされた人間性の喪失に痛烈な皮肉を投げかけた。ことにデュシャンが呈示した“オブジェ”と呼ばれる既製の物体は,芸術作品も一種の物体にすぎないことを強調し,芸術および作品とは何であるかの本質的な問題を提起した。それは反面,手描きされた絵画,手作りした彫刻という従来の概念を打ち壊し,手法や素材にとらわれない表現の世界を拓いたものと言ってよい。事実,ダダイスムの継承と反動から生まれたシュールレアリスム(=超現実主義)では,各種のオブジェのほかに,コラージュ・フロッタージュ・デカルコマニーなどさまざまな技法が積極的に試みられている。なかでも最も重要なのは,1924年にブルトン(1896〜1966)が発表した『シュールレアリスム宣言』に述べられているオートマティスム(自動記述)とデペイズマン(違和効果)の技法であろう。超現実者たちは,目に見える世界の背後にひそむ意識下の世界を表現しようとして,理性や美的・倫理的判断の介入しないこれらの方法を導入したのである。これには,当時開発されつつあった深層心理学,とくにフロイトのそれの影響が強い。フロッタージュによって神秘的な夢の世界を築いたエルンスト(1891〜1976),超次元的なイメージを定着し20世紀最後の巨匠と言われるダリ(1904〜),それに形而上絵画の創始者と呼ばれるキリコ(1888〜1978),幻想画家のクレー(1879〜1940),シャガール(1887〜),ミロ(1893〜)あたりまでシュールの系列と見なすことができるだろう。そのほか,どの主義や派にも属さずエコール=ド=パリに集まった画家たち,孤高に独自の芸術を追求した人たちは数多い。それも,第二次世界大戦の暗雲の下で,ナチズムによって“退廃芸術”の烙印を押されて多くは解体させられてしまった。
西欧の美術を殖産振興の一環として移入した日本では,印象派の影響を受けた芸術家たちがしだいにアカデミズムを形成し主流を占めていた。これに対して,明治後期から在野の団体が結成されるようになり,東郷青児(1897〜1978)らがキュビスムを,神原泰(1898〜)が未来主義を積極的に推進した。また,萬鉄五郎(1885〜1927)がフォーヴィスムを,1920年(大正9)には未来派美術協会が設立,ロシア未来派のブルリュックが来日しいわゆる前衛芸術が活発化する。村山知義(1901〜1977)は意識的構成主義を唱えてダダ的傾向を広めて前衛団体マヴォを結成した。これら急進作家たちの離合集散の後,1930年ごろからシュールレアリスムが導入され,滝口修造らによって前衛美術家クラブも結成された。しかし,第二次大戦へ向けての弾圧の下で前衛運動は中絶してしまう。全体としては西欧の芸術運動追随移植の感はまぬがれず,しかもプロレタリア美術運動の抗争のなかで,日本独自の展開を見ることなく終わってしまった。
【後期】第二次大戦後,世界各地に発生していた新しい芸術の動向をまとめて,フランスの批評家ミシェル=タピエは,1952年に別の芸術と命名した。戦後美術の出発点におけるこの名称は極めて示唆探い。戦後にもフォンタナ(1899〜1968)による空間主義や,アメリカで曖昧に抽象表現主義と呼ばれる運動がなかったわけではないが,もはや宣言文を高く掲げて主張する“イズムの時代”は終わったのである。それは,政治におけるイズムの抗争が大戦を招き,悲惨な結果をもたらしたことと無関係ではあるまい。代わって,さまざまなアートが共存する“アートの時代”に移ったと言えよう。そこでは,使用される素材やメディアそれに技術の名を冠して気軽にアートと呼ばれる。そして,イズムが主にヨーロッパを中心に展開されたのに対し,アートは唯一の戦勝国アメリカを主軸に展開されるという違いがある。また,前期が科学の理論の影響を受けながら展開したのに対し,後期はその応用技術からの影響が多いことも指摘できよう。
別の芸術,あるいは不定形美術,アンフォルメル,なまの芸術などとさまざまに呼称されるアートを,個々に分類して取り上げることは困難である。むしろ,これらにはいずれも定形に凝固するのではなく,無限に変容する有機的な混沌に共通項を見出すのが妥当であろう。それは,大戦という殺し合いを通じて,おびやかされた生命の危機から必然的に生じた止むに止まぬ衝動表現であった。しかも,同じ時代に広まったフランスのタッシスムやアメリカのアクション=ペインティング・抽象表現主義といったいわゆる熱い抽象が,その情念的表現行為において,東洋のそして敗戦国日本の書道や禅にしばしば傾倒を見せているのは興味深い。それに呼応するかのように,関西を中心に吉原治良(1905〜1972)が主宰した具体グループの活動は,この時期に国際的評価を得た。また,もともと表現主義的な色彩の濃い北欧でも,コブラ=グループがシュールレアリスムの影響の下に独自の存在を主張した。
戦後も少し落ちつくと,不安定なイメージのなかからやがて具象の形態がほの見えてくる。1960年,フランスで組織されたヌーボー=レアリスム(=新しいレアリスム),同じころアメリカでおこったネオ-ダダイズムなどの現実的傾向である。このころ日本では,1949年に発足した読売アンデパンダン展(1964年,16回展を前に中止)を場に,前衛芸術家たちが既成の概念からはみだした異様な物体を展示し物議をかもしていた。当時はまた,絵画と物体を結合させたコンバイン,廃物の寄せ集めによるアッサンブラージュなどが流行り,ジャンク=アート(=がらくた芸術)が〈芸術のチリ紙化〉などと揶揄されてもいた。
同じころイギリスに発生したポップ=アートは,ポップ=ミュージックの狂騒に乗ってすぐさまニューヨークに伝播し,大量消費文化を背景としたアメリカン=ポップを生み出す。これは,工業化・量産化された商品や広告で満たされた現代都市環境を新しい自然ととらえ,その現実をそのまま芸術に取り込むことによって,芸術と日常の垣根を取り払おうとしたものであった。ポップからの影響で,ラフなポップ=カルチャー(大衆文化)現象がおこり,少なくとも欧米社会においてはアートがより身近な存在と感じられるようになる。
1957年,ソヴィエトは人工衛星の打ち上げに成功,1961年には人間衛星が打ち上げられ,1963年のケネディ大統領の暗殺事件が初のテレビ宇宙中継によって世界に報じられた。これら科学の新しい応用技術に刺激されて,50年代末ごろから新技術への芸術家の関心が高まり,〈芸術の電化・情報化〉が取りざたされ始める。透明プラスチック・鏡面板・蛍光色・ネオン管・ブラックライトなどの非物質的素材で視覚的幻惑効果を生み出すオプチカル=アートがまず人目を惑わし,モーターや磁石を使ったキネティック=アートが人の心を揺り動かす。こうした造形の非物質化は,立体造形作品にも及び,塗装して材質感を失わせたミニマル=アート,絵画では幾何学的な形体に明快な着色をしたハード=エッジを生み出した。
他方,高度生産社会の矛盾が環境公害を引きおこし,その反省から芸術家たちは自然へ回帰し,水・土・石などの原素材を取り上げる。大地に人為の痕跡を記すことで始まった原始時代の耕作にも似たアース=ワーク,さらに広大なランド=アート,そして作業労働からの演繹とも言えるハプニング・イベントそしてパフォーマンスなど,肉体を表現メディアとする活動も盛んになった。こうして芸術の概念が拡大すると,芸術とは何かを問いかけるコンセプチュアル=アート,芸術についての芸術が芸術となり得るという同義反復が操り返される。その間,1966年にニューヨークで結成された芸術と科学技術の実験グループでは,芸術家と技術者とが協同して,各種のメディアを総合した芸術的実験を展開していた。その試みのなかから,ブラウン管を個人的表現に用いようとするテレビ=アート・ビデオ=アートが発生し,電子技術の発達に伴ってコンピューター=アート,第三の光ともいわれるレーザー光を用いて撮影する三次元立体写真によるホログラフィック=アートなど,先端技術を用いた芸術的表現が1980年代に向けて関心を集めている。
日本では戦後,戦争に協力した芸術家の責任追及が問題とされたが,うやむやのまま,欧米の新しい傾向を次々と受け入れて表層的に活動が展開されてきた。目新しさ・先取りが一種の流行現象となり,独自性を深めるゆとりをもたなかったせいであろう。欧米のあらゆる傾向がいちはやく取り入れられるが,日本から外へ向けての発言が少ないことは今後の課題である。地の利はあるにせよ,アメリカ在住の荒川修作(1936〜)らが,わずかに国際的評価を受けている状況である。20世紀の美術とは何かと同じように,日本の美術の本質は何かと問われる時に至っている。
〔参考文献〕カリーン=トーマス,野村太郎訳『20世紀の美術』1977,美術出版社
高階秀爾・中原佑介編『現代の美術』1971,講談社
本間正義編『日本の前衛美術』1971,至文堂